I
みけろくろ
昌子
1話
水色の車がある。もはや人類には手のほどこしようのないほど有害な大気に汚染された水色の車だ。その後部座席に、アンパンマンのソフビ人形が落ちている。
昌子はリアガラスから中をのぞきこんだ。車を片付けなければならない。
その赤と黄色のヒーローの名前を知っているのは、ひとえに脳内に埋めこまれたチップのおかげだった。
その黄金色のチップは、表面がクロムでメッキされ、僅かに腐食されたそのおかげで比較的長い期間、錆びることがない。錆びていることがさらなる錆を防ぐというこの仕組みは、非常に古めかしく、しかし画期的だった。旧世代のヒーロの名前を知っていることも、ある種の錆びである。昌子は考え続けながらタバコを吸った。掃除をしなければならない。車に玩具入れとしてプラスチックのケースを用意しているが、昌子以外、だれも後片付けをしない。腹の立つ話だが、昌子にも怠惰な気持ちが分からないわけではない。
なぜなら、ここはうんざりするほどに荒れはてた駐車場だった。乗り手が永遠に不在の車両が岩のように錆つき、割れたコンクリートの上を砂埃が舞っている。
このような惨事に陥っている場所は、ここだけに限らない。延々と呆れ果てるほどに、地上はだれの注目も浴びず、だれのためにもならず続いている。そんな世界で後片付けなんて、どのような意味があるだろう。これこそが錆だ。
思考を止め、タバコの火を地面に押しつけて消す。頭に衝撃が走った。笑い声がする。顔をあげて「愛!」と怒鳴る。
昌子の頭を叩いた少女は、空をつんざくほどに甲高い叫び声をあげ、首に巻いた黄色と赤色のチェックのハンカチをひらめかせて走り回る。
子どもはうるさくしているのが仕事だし、大人を怒らせるのが義務だ。そのように思えば少しは苛立ちがまぎれるので、そう思いながら、シャツの前ポケットから無意識にたばこの箱を取り出す。貴重品なので一日にそう何本も消費できない。箱を元に戻して空を見上げると、曇り空だった。途方もなく巨大な棺のようなホームセンターの一号館の上の方に、深緑色の看板が斜めにぶら下がっている。
「あいつら、いつ帰ってくるんだろう?」
愛はまだ三歳だった。彼女は「お買いもの!」と叫び、ありあまる体力を消費するために駆けだした。
駐車場のはるか先にあるホームセンターの入口から、呼び声が聞こえた。
誰かが手をふっている。目をこらすと、五人の人影が荷物をかかえて走っているのが見えた。
「パパだ!」
愛が狂ったように跳ねた。
「ねえ、まさちゃん! みんな、走ってる!」
「そうだな」
昌子は冷静に言いながら、愛の首根っこを捕まえて車の後部座席に放りこんだ。走り寄ってくる仲間たちを確認する。一番右側を走っている男性は、しなやかに背後へなにかを投げた。数秒後、彼らの背後が爆発して白い粉塵が上がった。ヒーロー物の映画みたいだ。昌子は記憶のチップが勝手に再生する不要なメッセージにうんざりし、深いため息をついて、後部座席の扉を開けて運転席に乗りこんだ。
次々に人が飛びこむ。髪の長い女、背の高い女、白い服の女、小柄な女……一番最後に男が乗りこみ扉を閉めると、助手席を乗りこえて前に移動しながら「待たせたね」と昌子に困ったような笑顔を向けた。
昌子は横目でそれを確認すると、思いきりアクセルを踏みこんだ。タイヤが数回空回りしながらアスファルトを擦り、エンジンが咳こむと、汚れた水色の車は親に怒鳴られた子供のように走り出した。男は「ひゃあ」と情けない声をあげてグローブボックスにしがみついた。
「すばらしい運転」
彼は苦笑しながら鼻の上で傾いた眼鏡をかけ直そうとしたが、その瞬間にガラスが割れて彼の手元に散らばった。昌子は憮然とした顔で「またガラスが足りなくなるじゃないか」と言った。
「ごめんよ」
「それで、どうしてあいつら、あんなに怒っているんだ。今日は平和的な交渉のはずだろう」
「私のせい」
横から白い服の女が顔を出した。
「ビスケットが欲しかった」
昌子は白い服の女とは目線を合わせなかった。サナという名前のこの女が、昌子は妙に苦手なのだ。自分よりもはるかに年若いが、彼女と話をしていると、とっくの昔に死んだ自分の母親や祖母と話をしているような奇妙さを感じるのだ。
「ビスケット?」
「たった一缶だ。横着されてな」
反対側から背の高い女が顔を出して補足した。彼女はすすけた白衣を身にまとい、腕まくりした両腕に大量の小さな機械を装着していた。
「由美が怒った。それで、向こうも怒った」
サナがそう言うと、男が口を挟んだ。
「彼らにも彼らの生活があるから、あんまり事を荒だてたくなかったんだけど……」
「パパは穏便に話そうとしていたさ。悪いのは向こうだ」
由美はそう言い切ると、パパと呼んだ男をちらりと見た。
「わかったよ」
昌子は頷いた。色々と文句はあるが、具体的な言葉が出てこない。右足の足首を僅かに曲げ、アクセルを緩める。ハンドルを切ると、住宅街を抜けて広い公園の脇道に入る。自由気ままに伸びきった木々の枝を掠めて折ることも気にせず車は一直線に進む。
一番後ろの座席には愛を挟むように、小柄な女と長い髪の女が座っていた。
愛が人形を握りしめながら立ちあがると、長い髪の女が愛を膝の上に乗せて「見ちゃだめよ」と言った。
「なんで?」
「あたしのプログラムにそう書かれているからよ。おばかさん」
「愛、ばかじゃないもん。トアの方がばかだもん」
「いやね。あたしが、馬鹿なはずがないでしょう? あたしたちの知能指数は最適なパフォーマンスが出来るように設定されているし、パパが設定ミスを起こすわけがないもの」
「あのね、愛ちゃん。あたしたちのプログラムでは、十八歳以下の人間に身体の欠損を見せてはいけないし、十ミリリットルを超える出血および出血の原因になる行為を見せてはいけないってことになってるの。だから……」
話しながら小柄な女が窓を少しだけ開け、後方を確認すると、目をリスのように丸くした。
「うわあ、由美。なんか追ってきてるよ」
「なに? 殺せ」
由美は言うが早いが、窓のすきまから小型の銃を握った右手をすべりこませ、ためらいなく撃った。窓に青い液体が数滴跳ねる。
「おっと」
由美は慌てて窓をしめた。車の背後から何かが飛び出す。昌子はとっさにブレーキを踏みそうになったが、それの正体を目視すると、慌ててアクセルを踏みなおした。車はぐらぐらと揺れ、後部座席で愛が嬉しそうな悲鳴をあげた。
高速で走る車の前方に張りついているのは、青い怪物としか言いようのない生物だった。上半身は蜘蛛の頭部に似た楕円型で、八つの紺色の目を持っているが、その下半身は蓮のように大きな薄い葉っぱと、そこに絡みつく触手で構成されている。
昌子はフロントガラスの上に乗ったそれを指さして「おい、由美、なにやった!」と怒鳴った。
「間違えた。動植物を撃ってしまった」
「昌子、前、前!」
パパが慌ててハンドルを支えた。細く鋭い青い触手が運転席の窓ガラスを突き破り、昌子の首元を狙った。その元に噛みつき、勢いよく首を振る。触手は千切れて足元に落ちた。
「アクセル踏んでろ」
昌子は運転席の扉を開くと、アシストグリップをつかんで身を思いきり前に投げだし、その勢いでフロントガラスに乗った動植物を蹴りとばした。蜘蛛の頭に出来た銃創から青い液体が吹き出し、その液体の中を突っ切って怪物の爪が昌子の肩を外した。擬似皮膚の下のボルトが引きちぎられ、腕が半ば外れる。また壊してしまった。
昌子は舌打ちをして、左腕を引きちぎった。腕の断面からは千切れた電線から火花が飛び散り、動植物は生命の危機を感じたのか、触手を急激に昌子の首に巻きつけた。腕の断面を触手に押し付けると肉の焼ける音と共に白い火花があがる。蜘蛛の目が痙攣し、爪が震え、蓮の葉と触手がみるみるうちに青黒く焦げる。
蜘蛛の目が白くにごりきり、ようやく動かなくなった。
愛が嬉しそうに何事かを叫び、手を叩いた。昌子は状況に不釣り合いな笑顔を視界の横で捉え、すぐに目をそらした。教育が間違っている。このようなものを見て喜ぶなんて親の顔が見てみたいものだ。面白くない冗談が頭をよぎる。
運転席の扉から動植物の死体と左腕を投げこみ、自身も中に飛び乗ると、すぐにアクセルを全開にした。後ろに座っていた女たちが、ふざけた様子で昌子の健闘を褒めた。昌子は右腕をハンドルに掛けると「うるさい」と背後を一喝した。
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