トイレの大工さん
真島こうさく
「トレイの大工さん」前編
ああもう!どうしてこうも毎日、毎日、今日も明日も、誰も来ない廃校のトイレの薄暗さを眺めなくちゃならないの!? 私の名は花子。世間的には “花子さん” のほうが耳馴染みがいいかもしれないけど、そんな呼ばれ方をされるたびに私は内心、しっくり来ていない。だって普通に考えてほしい。私は花子だ。お友達が増えたとしても複数形にはならない。つまりは “花子たち” とかではないし、ましてや “花子さん” と他人行儀にされてもピンと来ない。まあ、もう慣れたけれど。
ここはかつて、そこそこ栄えていたはずの小学校。が、私がふと気づいた頃には廃校になっていた。ことの
独りきりで、何をするでもない。そういう境遇である。学年行事もないし、修学旅行もない。かつての給食室やプールも、風雨にさらされて朽ち果てている。草むしりをする児童もいないから、雑草だけは
ところが一方で、私が陣取るトイレは放っておくとどんどん汚くなる。そりゃそうだ。掃除用具入れはもう何年も開いてすらいない。トイレットペーパーなんて相当前に無くなったまま。赤錆色の蛇口をひねってみても、出てくるのは何やらサビ臭い水か、下手すれば土ぼこりまじりの泥水だったりする。清潔感はゼロ。風通しも悪い。日当たりも悪い。悪い尽くしのこの現状に、正直、私の心まで曇りそうだ。
それでも、ホラーな存在として学校に棲みつくからには、風格というか最低限のステータスが欲しい。例えば、ある程度は怖がらせるための演出が必要になるし。ホラー少女として名高い花子さんが立てこもるトイレが、こんなに汚物まみれでは説得力がない。いかにも黒ずんだ水垢に呪われていそうな印象はあるものの、これはあくまでただの汚れ。もっとこう、演出的に暗闇を作ったり、鏡を意味深にヒビ割れさせたり、そういう“ホラー的にきれいな装飾”を施したほうが魅力的なんじゃないだろうか。少なくとも、リアルすぎる汚物にまみれたトイレはただの汚いトイレであって、来た人間が中に入る前に引き返してしまう恐れだってある。と、自分で言っておいて何だけれど、冗談であっても笑えないわ。
私はここで思ったのだ。トイレが汚すぎるんだよ!!、と。掃除をしたい。それはもう切実に。たとえ怖がらせのためだけのスポットであれ、最低限の衛生は守らないと。だが、この広い校舎に清掃員などいないし、先生方も既にこの学校を去ってしまって久しい(もういつの事か忘れちゃったけど)。奇跡でも起きない限り、誰かが現れてトイレを磨いてくれるなんてことはない。ならばもう私がやるしかない。幽霊や怨霊だと言うなら、物理的な清掃は得意じゃないかもしれないけど、やってやれないことはないだろう。ここまでやる気に満ちている幽霊も珍しいかもしれないが、他にやることもないのだし。むしろ暇を持て余しているならば、トイレのDIYをしてみるのもありなんじゃないだろうか。
「DIY? 私にそんなことができるのかな……」
なんて独り言をぽろっと漏らして、自分で自分にツッコむ。“花子さん” の位置づけとしては、人間を驚かすテクニックなら心得ている。でも金づちとノコギリの使い方なんて知らない。いやいや、試してみなければわからない。それに、何ごとも最初から完全にはできない。学びながら手を動かせば、あるいは成功に近づく可能性はあるはずだ。“DIY女子” ならぬ “DIY幽霊” がいたっていいじゃないか。令和の時代に、学校の怪談が時代遅れなままなのは実に寂しいことだ。アップデートが必要だ。そう! 私にもアップデートが必要だ!!
動機はどんどん膨らんできた。前向きにいこう。何か自分の手で変えられるかもしれない。廊下の隅に転がっていた古い道具箱を見つけたのは、そんな決意を固めかけた頃だ。いつの時代の大工仕事に使われていたのかわからないが、ノコギリらしきものや釘抜きのようなものはちゃんと入っている。年季が入りすぎていて、下手をすると使った瞬間に朽ち果てそうな気もしないでもない。だが希望の光だ。この道具箱こそが、私をDIYの道へ誘う鍵のように思えた。いや、正直に言えば状況は暗雲だらけなんだけれど、暗雲こそ晴らしたいじゃないか。
もちろん、どこからどう手をつければいいのか見当もつかない。トイレ修理に関する本やマニュアルがあるわけでもないし、オシャレなインテリア雑誌もない。でも思えば、子供だって何かを始めるときはいつだってノリと勢いで動いている。それでいてどうにかなってるんだから、私だってきっとなんとかなるのだろう。気のせいかもしれないが、勢いだけでこの荒廃したトイレを改築できる予感がするのだ。
少しだけ怖いのは、これが本当にただの自己満足に終わらないかということ。誰も来ない廃校で、いまさらトイレを整備したところで、誰が使うの? 私が使うの? なんのために? だけど、そんな考えはじつにナンセンスだ。そもそも “誰が使うか” なんて関係ないんだ。私がやりたいからやる。それ以上でも以下でもない。自分の生活空間を改善するというのは、立派な意味づけのはずだ。それは幽霊だろうが人間だろうが同じこと。なんとなく、そんな当たり前を今さら噛み締めている自分が少しだけ可笑しい。可笑しいが、やる気を削ぎはしない。むしろ、今さらふつふつとわき立つこの熱いモチベーションは一体なんだろう。背中をぐいっと押される感覚がある。
「そうと決まれば準備だよね」
ネジまわしはある? ノコギリは錆びてない? 釘がそもそも足りる? 塗装のペンキは? そこまで念入りに揃えられるかは微妙だけれど、とりあえず手元にあるものでなんとかしてみようじゃないか。これまで何年もただただ時間を浪費してきた身からすれば、どんな挑戦だって新鮮な冒険に違いない。私の思いをさらに強めるのは、このトイレ特有の悪臭だ。もう鼻が曲がりそう。この状況を黙って見ているなんて、もう勘弁。
というわけで、この廃校に独り取り残された花子さんこと私が、ホラー少女から一転してDIY少女へ変身する日が訪れそうだ。いわゆるなんでも屋、と言うよりは、大工仕事でトイレをきれいにするためだけのワンポイント職人。そう、一種の新たな自己演出だ。幽霊に“本業”などない。やりたいことをやりたいようにやるだけだし、やれるだけやってみたあとに反省すればいい。その過程で壊すかもしれないけど、もともと誰も使わないんだし、この薄暗い汚れが落とせない限り、何かが改善されることはなかろう。
「やるしかない」
パキリと音を立てて、私は道具箱を開いた。埃まみれだが、中身をかき分けていると、昔の大工さんが使っていたであろう魂が伝わってくるような、妙な胸の高鳴りを感じる。かつて校舎を建てた職人の子孫かもしれない。あるいはPTAの父兄が奉仕作業で使っていたものかもしれない。いずれにせよ、こういう道具があるということは、自分の手を動かす余地があるということ。やりたいことは何でもやってしまえって、多少危なっかしくても、私の気持ちはもう止まらない。
さて、問題はどこからどう修理してやるかだ。まずは簡単なところから始めるのが無難だろう。便器のヒビを塞ぎたい、でも水が通っていない現状で配管をどうにかできるのか、とか壁のタイルが剥がれて地面に散らばっているのを何とかしなきゃとか、課題は山積みだ。けれども、そんな課題の多さも逆にワクワクする。無謀と言われるなら、それこそ望むところだ。怨霊的な絶叫はやめて、DIYによる絶叫を上げてみせよう。
そして私は決意した。汚いなんてもんじゃない、腐りきったトイレの惨状を今ここで変えてみせようと。いずれにせよ、ただ黙っていても何も始まらないのだ。私は大工さん――そう、DIYの大工さん。今の私はそういう気分だ。だから前向きに、右手にノコギリ、左手に錆びたペンチ。そこから始めればいい。
これが運命なのか偶然なのか、それはわからない。そもそも私という存在が運命と呼べるようなものに導かれているのかどうかも、確かではない。なぜなら私は花子さん、学校の怪談では有名でも、こうして現にトイレをDIYしようとしているくらいだから、もはや“既存の伝説”には収まらない自信がある。
とにかく、準備をしなくては。工具箱に色々と詰め込んで、いざ出陣だ。ゴキゲンな大工仕事のBGMでも流れてくれないかなと思いつつ、私は鼻歌でごまかすしかない。錆びついた闇の中でも、私の心は妙に明るい。これまでの寂しさも
そんな風に妄想をかき立てながら、私は今しがた手に入れたレトロな道具箱を抱きしめるように持ち上げる。すると微かな軋みの音が響いた。大丈夫。壊れやすい夢が私の頭上に降ってきそうな気配はあるけれど、それでも行くしかない。新しい“花子さん伝説”を自分で作るのだ。この汚いトイレから。DIYに自信なんてこれっぽっちもないくせに、私の心はすでにやる気でいっぱいだ。
「やるよ。やってやるよ」
と、私はトイレの中央で堂々と宣言する。誰に聞かれるわけでもないけれど、これだけははっきりしている。いまこの瞬間、私の花子人生は転機を迎えた。トイレの花子さん改め、トレイの大工さん。……何のキャッチコピーなのかはわからないけれど、意外と悪くないネーミングだと自画自賛しておく。ホラーかコメディか、それとも新ジャンルか。そんな分類はどうでもいい。私は汚いトイレを綺麗にしたいだけ。だから絶望を捨てて、ここから一歩踏み出すだけだ。
こうして私のDIY計画は幕を開ける。さしあたって私は、錆びた古い蛇口と戦うところから始めるつもりだ。下手な軍手をはめて、まずは汚れを落とすところから。しかし、その作業が思いも寄らない波乱を呼ぶなんて、この時点ではちょっとだけ予想できたかもしれない。いや、全然できないかもしれない。そもそもこの廃校の水道管が今どうなっているか、私は一切知らないのだ。配管をいじれば、古い学校の怪物級のなにかが目覚めたりして……。ま、それは考えすぎかな。いやでも……。などとぐるぐる思考しつつ、それでも私は先へ進む決心を固める。
誰に止められようと止まらない。そう、自分で決めたことだもの。汚れきったトイレも、長年忘れ去られた花子さんの存在も、きっとこのDIYで大きく変わってみせる。自分の手で世界を動かすんだ――誰に見られなくてもいいじゃないか。誰にも感謝されなくたっていい。ただ、自分が納得するトイレに生まれ変われば、それで十分なのだ。
そうして私は、大工道具と共にこのトイレを出る。廊下を歩く時の足取りが軽いのは気のせいではない。だって、後戻りする気なんてさらさら無いのだから。花子さんはやると決めたらやるんだ。勢いとノリと、何より惨状に耐えかねた結果なのだから、もう止められない。と、自分に言い聞かせていたところで、うっかり錆びた釘を踏みそうになったのはここだけの秘密。幽霊だろうが危ないものは危ない。気をつけなきゃ。
次はあれこれ必要な道具を探す旅に出ようか。学校の備品庫や教材置き場になにか役立つものが眠っているかもしれない。それとも体育倉庫の奥にさらなる秘密兵器が眠っているやもしれない。まずは調査だ。やれることを全部やって、それでダメなら諦めればいい。そう、ちょっとホラーじみた荷物をかきわけて、その奥底に残された何かを手に入れる。古いものならいくらでもありそうだし、意外なところに使える素材があるかもしれない。物陰に何かが潜んでいたら、そいつも一緒にDIYの手伝いをさせてしまおう。新しい仲間(幽霊仲間?)が増えたら、それはそれで楽しいかも。
こうして廃校の夜は更けていく――というか、私にとっては昼夜はあまり関係ないのだけれど。とにかくトイレをDIYする。それが今の私の生きがい、いや死にがいかもしれない。その先に何があるかはわからない。きれいになったトイレの中で優雅に暮らす花子さんがいるのか、はたまたDIY失敗して廃材の山に埋もれている花子さんがいるのか。想像は尽きない。……でも、前者であってほしいと願ってしまうあたり、私もまだまだ幽霊としての執着が強いのかもしれない。
そういうわけで、物語はここから始まる。汚いトイレに嫌気が差して、幽霊がDIYを思いついた――タイトルにもある “トレイの大工さん” って字面はシュールかもしれないけれど、間違ってはいない。これが本当に私の転機になるだろうし、ここから先に何が起こるかは誰にもわからない。いや、そんな当たり前のことをわざわざ言うあたり、ちょっとわくわくしている私がいる。
いかにも“前編”らしい幕引きだけれど、何はともあれ、きれいなトイレに生まれ変わらせてみせる。ホラーとしての話がどうこうとか、コメディとしてのテンポがどうこうとか、そんなのは二の次。まずはガラクタだらけの道具と、私の根性を信じてみよう。学校の怪談はこうして更新されていくのだ――というか、されないかもしれないが、それは後になってのお楽しみ。
それじゃ、あれこれ動く準備を始めよう。思っていたよりもわくわくが止まらない。DIYに目覚める花子さん、爆誕である。
(「トレイの大工さん」後編へ)
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