堕ちる初恋の終焉
@hanamizukimai
不純愛
鋭い視線の奥に、何故だろう、寂しさを感じた。
弓橋さんは、そんな不思議な第一印象だった。
八月。北海道もずいぶん暑い日が続いている。そんな真夏の日の午後、私は就労支援所という場所に通い始めた。
「香川美鈴さん、初めまして。スタッフの弓橋です。ようこそ、うちの会社へ。いやー、若い女の子の入所なんて久しぶりだから、おじさんドキドキしちゃうなー」
陽気で人の良さそうなしわくちゃの笑顔で、だけど、本当は相手を警戒していると感じた。
年の割に整っている顔立ちが、逆に冷酷そうなイメージも与えている。
始まりは、それだけだった。
毎日同じ場所に通って、何人か友達も出来たし、先輩にあたる男性の何人かに告白もされた。
でも、そんな気にはなれずに軽く受け流していた。
何故か私は、弓橋さんのあの視線が忘れられなかった。
「弓橋さん、今ちょっといいですか」
また私は弓橋さんを指名して、相談に乗ってもらっていた。
見慣れた事務室で二人きり。そんな状況が少しずつ嬉しいものだと気づき始めたのは、いつからだっただろう。
「私、また昔のこと思い出しちゃって、泣いていたら朝になってました」
「両親のことか…」
「はい」
「無理に忘れる必要は無いよ」
「弓橋さんがお父さんだったら良かったのに」
一瞬、沈黙が走る。この空気が私はどちらかと言うと好きだ。
「パパって呼んでもいいよ?」
「なんですかそれ」
「冗談だけど」
他愛ないようで、お互いを試している会話だと思った。どこまでなら踏み入っていいんだろうかと、探り合っているような。
「弓橋さんはどうなんですか」
「へ?」
「うちの両親はまぁ、最悪ですけど…弓橋さんは奥さんと仲良いですか」
「……良い、のかなぁ…」
その時、初めて弓橋さんは戸惑いを見せてくれた。
「悪いんですか」
「いやっ…悪いわけじゃないよ」
「良くもないんですね」
「…怒られてばっかりかな」
「弓橋さんは立派で、私は尊敬します」
また少し、沈黙が流れる。今度はさっきより長めに。言葉の意味を噛み締めるように。
「美鈴さんはさ」
「はい」
「今日も帰る所無いんだよね」
「まぁ、友達とかの家に行きます」
「俺とドライブでもしようか」
秒針がカチカチ動く音がする。心臓の音が聞こえる。私はもっと弓橋さんに近付きたかった。ずっと深くまで、知りたかった。
私の今までの人生は、あって無いようなものだ。
親に望まれずに産まれた子。私は親戚や友達や男の人の家を転々として生活している。
学校なんてまともに通えなくて、通えた日にはイジメに遭って。
ああ、もう誰にも必要とされてないんだと分かったから、死のうかと思った。
でも、そんな私を、弓橋さんが救ってくれた。
真夜中、公園のベンチで何をするでもなく、座って泣いていた。これから私は消えるんだと思うと、やっぱり怖くて。
すると急に隣に誰かが、どかっと座ってきた。私はもう、どうにでもなれと思っていたから、無視してそこで泣き続けた。
「大丈夫?」
「…えっ」
「おじさんも行くとこ無くて、今日はテキトーに漫喫でも探そうかなってね」
「そう、ですか…」
「俺、弓橋っていうんだけど、いちおう就労支援所の主任やってるんだ」
「はあ」
「良かったら、遊びに来てよ」
就労支援所って遊ぶ場所なのか疑問だったけど、でも、私はおもしろくて、なんだか心が少しだけ満たされた気がして、笑った。
「お、笑ったね」
「だって弓橋さん、おもしろい」
「やっぱり笑顔のほうがいい」
あの日から、私はときどき笑うようになった。全部、弓橋さんがくれた宝物だ。
会社が終わると、私はすぐに弓橋さんにLINEを送った。さっき事務室でこっそりLINEを交換しておいた。
「札駅のスタバで待ってます」
「了解」
簡単なやり取りだったけど、私は嬉しくてしょうがない。スタバで頼んだドリンクの味は全然覚えていない。ただ、弓橋さんが来るのだけを待った。
「美鈴さん」
ふいに後ろから弓橋さんの声がして、慌てて振り向くときにドリンクを少し、ワンピースに溢してしまった。
「あらら、可愛いワンピースが」
「大丈夫ですよ、これくらい」
「じゃ、とりあえず行こうか」
自然な流れでいつの間にか会計を終えてしまった弓橋さんは、落ち着いた足取りで私と並んで歩いた。
弓橋さんの車はシルバーで、家族も乗れる大きめのものだった。
いつもはここに奥さんか娘さんが乗るのかな、と考えながら助手席に座って、シートベルトをするとき、ちょっと手が震えた。
「動くよー」
「はい」
夜の街中を走る車。弓橋さんと二人きり。
普段なら何も考えなくとも他愛ない話が出来るのに、どうしても言葉が詰まって出てこない。私は緊張していた。
やがて、弓橋さんは人気のない有料駐車場に車を止めて、伸びをしながら溜息をついた。
「疲れたから休憩ー」
「お疲れ様です」
「ありがとうございます」
「…なんですか」
「美鈴さん、緊張してるよね」
答えられずにいる私を、弓橋さんは見つめていた。恥ずかしくて直視できない。
夜の暗闇の中、遠くで行き交う知らない車や店のライトで時々車内が照らされる。
「私…」
「うん?」
「…弓橋さんになら、何されてもいいです」
また沈黙が走る。
刺さるような空気を感じて、ふと顔を上げると、固まったままだった弓橋さんが、シートベルトを外して、こちらに身を寄せてきた。
ああ、ここまで来てしまった。
だけど、もう止められなかった。
私は弓橋さんが好きで、弓橋さんも私が好きだった。
幸せを感じられない人生の中で、初めて見つけてしまった感情。これを初恋と呼ぶのだろうか。
今まで隠していたものをすべて吐き出すように、私と弓橋さんはお互いを激しく求め合った。
いくら口付けを交わして貪るように舌を絡めても、身体を重ね合わせて一つになったつもりでも、足りない。
これ以上、いったいどうすれば、私達の心は満たされるのだろう。
行くあてが無い私は、明日もきっと、繰り返していく。
間違いだと分かっていても、いつか終わりにしなければいけないと知っていても、引き離せない何かがあると、気付いてしまったから。
幸せを求め合うほど、堕ちていく。
これはただの、終わりの始まりに過ぎないのだから。
堕ちる初恋の終焉 @hanamizukimai
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