第9話『共通する奴ら』

 その言葉から逃げるように、堪らずといった様子で子供が顔を背ける。振られる首に一拍遅れてやぼったく伸びた前髪が揺れ、奥に隠れた顔を覗かせた。

 誰もが振り返る……とまでは言わないが、俺と比べればその顔立ちはよほど整っているといって良いものだろう。憂う顔が映える長めのまつげと、やや垂れ気味の目に映える二重の瞼に高い鼻。少なくともこの子がここへ立った原因に容姿は関係ないと断言して良さそうだった。

 しかし今に限ってはそのパーツ全てが握りつぶされているようにひしゃげていて、俺にはその歪さが心の内側を表わしているように思えた。

 軋む音が聞こえるかのように噛みしめる口元から窺えるのは単なる苦しみだけじゃない、……自分を襲った理不尽さに対する怒りが見て取れた。


「あいつらにとって、大した理由なんかないんだよ。だから後悔もしない」


 それは互いに取って幸か不幸か。

 経験者である俺にはその謎に対する、明確で残酷な答えを即座に伝えてあげることが出来た。


 「きっと葬式でだって上っ面だけで泣いて反省した振りして、ほとぼり冷めたら笑い話にする。『本当に死ぬことないじゃんねえ、バカなん?』とか言ってさ」


 ──だから君が今から振り絞ろうとしている一世一代の勇気は、恐らく無意味に終わる。

 裏に忍ばせた真意はちゃんと伝わっただろうか。こちらを見る眼が一瞬大きく丸まってから、風船が萎むように縮んで浮かべる色も淀んだ。文字通り命を懸けた抗弁が相手に響かないなんて、全く考えていなかったという顔だった。

 けれど自分への仕打ちを考えれば、で改心するようなタマじゃない──そう合点がいってしまったのだろう。

 どんな環境であれ人が3人以上集まれば派閥が生まれ、軋轢が生じ、そして力の弱い方へと弾圧が起こる。それは人の営み──大袈裟に言えば歴史の縮図であって、どこまでいってもついてまわる人の性だ。

 その根っこに流れるものに、理由なんてないのかもしれない。

 その時はいつでも、その相手はだれでも、その手口は何でもかまわない。

 起こる時は起こり、被害者になる時はなって、終わる時は終わる。天災のようなもんだ。

 決して君に死を選ばなければいけない程の非があるわけじゃあないと、そいつをうまく伝えてやりたい。だがそれは言い換えれば解決策が無いという、無情な結論でもある。

 だからこそ、伝え方は難しかった。


「……しかもさ、そういう奴に限ってその後の人生上手く渡ったりするからね」


 それには『形成する社会の中に異物を排除するのは生き物として当然の営みだから』とか、そんな一般論を続けるのは悪手だ。

 頭の中の、出来れば二度と指を掛けたくなかったなかった引き出しを開いて、経験をベースに伝えてやるほうがいい。

 いつか偶然SNSで見てしまった、知らない間に行われていた中学の同窓会のポスト。そこには俺をシンプルに『豚丼』と罵っては床へ転がしていた奴らがブランド物のスーツを纏って肩を組んでいる写真が載っていた。胃の奥底が腐り煮えるような感覚を覚えながらスクロールすれば、揃って夜職みたいな出で立ちをした嫁と並んで握ったシーツみたいなしわくちゃの笑顔を浮かべるガキを抱いていやがった。


「そんな……」

「理不尽だよな、世の中」


 やっぱり実感を伴うことばのほうが響きやすいのか。なで肩を更に落とす子供の顔は今や火が消えたように失望に染まっていた。

 出来れば明日を生きる理由を与えることで足を止めてあげたかった。だがそれには原因を探って解消してやる必要があって、それは俺にこなせるような仕事じゃない。


「まだ──」

「うん?」


 何か情報を引き出そうとしたわけではない。単に身の上話を話してみただけに過ぎなかったのだが、その何処かの部分が、何かしらの琴線に触れた……かは分からないが、ともかく何の前触れもなく、不意にその俯く顎がもぞもぞと動いた。


「し──」


 続けかけて、再び押し黙る。自分の頭を見るように上端に張り付いて右往左往する目の様子は、一度すっと浮かんでいた言葉を自ら手離し、無理やり当てはめる他の候補を探しているように見えた。

 それから少し時間を置いて、少しだけ口早になった子の告解は続く。


「……3年にもなって、まだ誰かと付き合った事が無いのは、お前だけだって」

「言われたの?」


 張子の虎のように、かくんとその首が落ちた。

 訊ね返しては見たものの、いったいその事実のどこに傷つく要素があるのか、正直言って理解が追い付かなかった。確かに自分が同じ年の頃にはやれ何人と付き合ったとか、何人に告白されたとかをステータスにしていた奴はいたけれど、羨みこそすれ比べられて焦ったり、ショックを受けたりとかは……した記憶が無い。

 童貞であることを焦り出したのなんて、多分高校の後半くらいからだし。


「そんなんだから、未だに古くせえスマホ持ってるんだろって」

「いや、それ関係なくない?」

「……言いました。でも、皆聞いてくれなかった」


 そこから更にふたつみっつ、ここに立った原因となったものが続いた気がしたが、内容はほとんど頭に入っては来なかった。

 ……知らなかった。

 表情を真面目なものに保つというのがこれほど難しい事だとは。

 こんな歳の命をなげうたせる決意をもたらすほどの辛苦なのだから、いったいどれほど鋭い槍が心を貫いたのかと思っていた。だがどれもこれも聞けば聞くほど、槍どころか棘と呼べるのかも疑わしい……なんだろう、つまようじ?

 理由を探しては拙い口調で挙げ、こちらの顔色を見てはまた理由を探す。

 その様子を見る限り、本気でそれらがいじめを受けている原因だと思っているかどうかすら疑わしく映った。だがそれでもどこかに因果を求めないと、今自分が置かれている境遇に納得出来ない。その気持ちも理解はできるが、俺からしてみてもさすがに些末に過ぎるものばかりだった。

 神妙な顔を保つのに神経を裂く一方、『そんなことで?』という一言が頭の中で加速度的に膨らんでいって、耳に入ってきた話を噛み砕くスペースが無くなっていく。

 正直、余程途中で遮ろうかとも思った。実際俺がただふらっとここへ来ただけの旅行者ならばとっくに「下らない」に一言の元に切り捨てていただろう。


「……なるほど」

 

 だけど今の俺には、それだけはやってはならない事だというのが痛い程理解できていた。

 学校という枠組みの中での些細なトラブルと、それに覚える生きづらさ。聞き手の俺がそれを『大したことない』と思えてしまうのは当事者ではないから……ではない。

 今までの話から察するに、恐らくこの子は中学校通いだろう。よほどの事情が無い限り、家と学校の2点を往復するだけの世界の中で生きている筈だ。

 俺が大したことないと思ってしまうのは単に、年と経験を重ねたことで今この子より広い世界に住んでいるからというだけに過ぎない。

 そして世界の広さはそのまま、心のキャパシティと比例する。

 大盛ラーメンに振りかける胡椒の量だって、炒飯の付け合わせに付いてきたスープに入れたらとてもじゃないが飲めなくなる──それと同じだ。

 無理矢理飲み下す為には水で埋めていくしかないが、丼のふちを越えて加水する事は出来ない。その結果溢れて零れる事を限界と呼ぶのは、たとえ器の大きさが違ったって変わらなかった。

 だから俺があの日オフィスで覚えたあの気持ちと、今この子が吐き出しているものは全く同じ苦しさを伴っているといっていい。

 ……こんな、俺の歳半分もいっているかもわからないような子が、あんな思いを。


「しんどいよな」


 だが俺と違って、この子にはまだ可能性があった。

 というのも、自分を追い詰めるあれこれを口にしている時、その眼には八方塞がりの現状に対する辛さややるせなさよりも、ふざけるなと叫び出しそうな怒りが滲んでいたからだ。

 それもまた、内に沸くエネルギーに身体の成長が追い付いていない、この年頃ならではのものだろう。感情が決壊したところでその後はただ枯れるだけだった俺とは、そこが決定的に違う点だ。

 それが今は自らの人生に幕を下ろす為に傾けられてしまっている。ならばその水先を変えてやれば、この子の明日は変わっていくはずだ。


 ……とはいっても、どうやって?

 見た感じ今の所、しびれを切らして目の前で飛ばれる可能性は低そうだ。焦る必要はない。けれどここで何も伝えられず物別れになったとして、次にこの子がここに立つときにきっと俺はいない。

 何か、何かと巡らせる視界に、開いた鞄の口が目に入る。崖を向くときにどちらかの足が引っ掛かったのか、さっきよりもやや形を崩しがま口のように開いたファスナーから、1枚のプリントが顔を覗かせていた。

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