第8話『測り合う奴ら』

「──『命の使い切り方は、人それぞれ』これ、俺が好きな漫画の台詞」


 それは互いの目的が同じと知って言葉を失ったままの子供との間を埋めるための、ぱっと思い浮かんだだけの誤魔化し文句に過ぎなかった。しかし聞くなり僅かな驚きに見開かれた目が、風向きが思ってもみなかった方へ向いた事を伝えてくる。


「……エレンディラ?」

「え、知ってるんだ」


 眼差しだけでなく具体的なことばでも意外な反応が戻って来て、今度はこちらが驚く番になった。

 名作の名に疑いはない。だが生まれる前か、生まれた後にしても物心つく前の作品だろうに。決して見た目で決め付けたわけではないが、サブカル方面に造詣が深そうといった第一印象はあながち的外れでもなかったらしい。


「強いオカマっていつの時代も人気だしね……まぁ、これは俺なりの解釈なんだけどさ」


 それはともかく──元より演技は苦手な口だ。それっぽい事を並べて説得に走るよりも、正直に言動のあらましを説明してあげた方がかえって良い方向に動くかもしれない。


「物とかお金とか……あと友達とか立場とか?そういうのは、誰かに取られたりつい差し出せたりしちゃうけど、命っていくら脅されても殴られても、差し出しようがないじゃない?」


 高校現代文『2』なりになるべく噛み砕いて説明したつもりだが、子供は眉を段違いに並行させながらただ睨む目を細めている。戸惑うような訝しむ様なその視線からは、俺の言葉をどう捉えているかまでは知り得なかった。


「つまり、ええと、なんて言うかな。命ってその人に残される『最後の財産』って奴だと思うんよ」


 命という単語が出た途端、それまでずっとハの字形を描いていた眉毛の端がピクリと動いたように見えた。

 それまでこちらへの不信と警戒を表す役目だけを果たしていたふたつの曲線から、初めて異なる意味合いが読み取れる。それがこちらの言いたい事が伝わっている証だと信じて、敢えて目線を外す。


「その使い道を今日、出会ったばかりで何も知らない俺がどうこう言う権利なんてないなーって……多分、そうまでする理由があったんでしょ?」


 出口の光が見えないトンネルを、延々と歩き続ける心細さや息苦しさ。そこから解放されるためにその手札を切る。自分というデッキにたった1枚しかない上、それを場に出した先にあるものは単なる投了に過ぎない。

 だとしても、その使い方を否定する気にはなれなかった。

 耐えた先にある光が見たいんじゃなくて、。その気持ちが痛い程分かるからだ。

 そんな要旨を理解してくれたかはともかくとして──どうやら『目の前で呑気に昼飯をかっ食らっている中年からは、何をどう叫ぼうと望んだ反応は得られない』事だけは悟ってくれたようだ。

 言葉で反応を見せる代わりに、それまでじっと耳を傾けていた子供の鼻からは、諦めを匂わせる冷たい呼気が漏れ出していく。

 それと同じくして足首を90度動かし、こちらへ半身になっていた身体を完全に断崖の方へと向け直す。


「だったら、止めないでくれますよね。解放して、くれますよね」


 本人的には隠し通せているつもりかもしれないが、その声は結びに使づくにつれてビブラートが掛かっていた。

 俺には子供が自死する様を面白がって眺めたり、ましてその背を押すような趣味もない。だけど訳知り顔で一般論だけを並び立て、善行を積んだという感覚に気持ち良くなるためだけに引き留めるような……そんな面の厚さを誇った覚えもない。

 俺に出来るのは、せいぜい見届けてやることくらいだ。



 (本当に、それでいいのか?)

 


 目の前でじりじりと、砂に塗れたローファーの爪先が淵へと近づいていく。

 完全に引けた腰の上で、顔は限界まで岸壁から背けているが、目線だけは時折その端を海面へと向けていた。その度歪む表情には明らかに、勢いのままここへ来た自分に対する後悔の念が覗いているのがわかった。

 ……あの日の俺の近くにこんな場所があったなら、同じ顔を浮かべていたのだろうか。

 あるいは身体の成長に追いつけない心が希死念慮に浮かされるまま、解放の喜びを以って抱く躊躇いごと己を殺していたかもしれない。

 右の手首に走る痕が、じわりと疼いた。

 そのどちらも出来ないまま二十数年を経て、俺はこうして改めて死の淵に立っている。

 積んだ歳月に、意味はあったのだろうか。

 苦しかっただけの半生と表す気はない。けれどすべてが幸福で満たされていて、生きてて良かったとは口が裂けてもいえない。ここでいのちをところで、余計に苦しむ可能性は充分にある。今この子の出足を止めるのは、単なる独善や自己満足に過ぎないのかもしれない。

 けれど──

 人生の終わり間際、人は自分の過去を見るという。ならば今、目の前で震えながら目を潤ませているこの子は、いつかの俺なんじゃないだろうか。

 あの時俺は死にたかったんじゃなくて、誰かに助けてほしかった。

 だから諦めきれずに、あの日を手首に添えた剃刀の刃を縦ではなくて横に走らせていた。 


「まあ、止めはしないけど誰も助けてくれなかったけど──」


 それでも生き延びてしまったことに、意味があるとするならば。

 気が付けば口が動いていた。

 腕時計のバンドの下に覗く、未だ薄っすら残っている傷の跡。そこへ一度目を落としてから箸を置いて顔を上げる。

 諦めるのは、自身の事だけで良いんじゃないのか。


「思うね。もったいねえなあって」

「もったいない、って──」


 こちらの言葉を鸚鵡返しにしたかと思うと、その途中で急に激しくせき込んだ。

 今わの際に冷や水をぶっかけられた頭が、今になって喉の疲弊を思い出したんだろう。飛ぶように後退りながら顎元に手を当て、背を上下にしながら俯く。こちらから視線が外れたその隙に、蓋を外したお茶を片手に、また数歩距離を詰める。


「咳の勢いなんかで飛んじゃうのも、格好つかないだろ?」


 ひゅうひゅうと喉を鳴らしながら荒げる息に対して、差し出すこちらの顔を睨みつける眼光は未だにぎらぎらとしていた。そこから向けられているお茶の飲み口、一歩遠のいた崖っぷち、そしてまた俺の顔と視点を廻し、やがて顔の皺をくしゃりと集めながらペットボトルへ恐る恐る手を伸ばす。


「……もったいないって、何がです」


 口を付けないまま太陽の方へと傾けて半分ほど飲み下したところで、途切れさせた言葉を改めてこちらへ向けて来た。その声は引いた顔の赤みと同じ威容にいくらか棘を潜めており、俺はそこでようやくその子の性別を知る。まぁ、どっちでもいい事といえばどっちでもいいのだけれど。


「うーん、初対面にこう尋ねるのもアレなんだけど──」


 言いたい事を口に出す前に、そこから飾り気を取るのは案外と苦労した。一度言葉を切ったのはそれだけであって、別に勿体ぶったつもりはない。だが、先を急かすように聞こえてきた舌打ちが、こちらに取って出しを強制させた。


「俺、冴えないオッサンにしか見えないでしょ。だから──」

「はい」


 『こんな所に来る羽目になったんだけど』

 斜に構えてそう続けようと思っていたのだが、肯定を意味する欠片の躊躇いもない頷きは思った以上にすぐさま返って来た。フォローされるとは思っていなかったものの、ここまでストレートに頷かれると流石に息も詰まる。


「ま、まぁ……お察しの通り、見た目も良くなきゃなんかの才能があったわけでもなし」


 なんで俺はこんなところで、また自分を卑下しなきゃならないんだろう。

 肚に決めたばかりの話の舵取りに早くも後悔を覚えながら、それでも一応聞く姿勢を取ってくれている子に向かって声を続ける。


「それでもね、大学に入って卒業して、社会人の2年目くらいまでは人生楽しかったんだよ。そこそこに」

「……それって、辛い目に遭わなかったっていう自慢ですか?」


 耳を傾けて損した。

 そう言わんばかりに顎先を明後日の方へ向けられてしまった俺は、逸れた目線の先へ身体を動かしながら慌てて首を振る。


「そんなことないって。中学の時はこの面に加えてまぁまぁ肥満体でさ。それなりにイジメられもしたよ、ちゃんと」


 イジメ。

 その単語を口にした途端、その顔に暗い影が落ちたのがはっきりと見て取れた。

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