宇宙の天使
aqri
無人の脱出ポッド
唯一残っていた音声記録に皆が目を丸くした。
「これは……どういうことだ?」
火星軌道宇宙ステーション「ヴァーチェ」に謎の物体が接近、防衛システムがこれを回収した。
それはカイパーベルト付近で長年調査を行っている別の宇宙ステーション「アイリス」の緊急脱出ポッドとわかった。通信を送っても返事は無し、慎重に外から開けてみると中に人は乗っていなかった。そのかわり音声記録が一つ残っていただけだ。
「どうしてこの音声を残した人は自分が脱出しなかったんでしょう?」
「脱出できない理由があったとしか言いようがない。想像で語るのはやめよう、まずはこの後どうするか」
ヴァーチェは地球連合軍によって作られた軍の施設である。研究者も多いが、ステーションは巨大な一個小隊そのものだ。今責任者が席を外しているので、ビジター准尉とレスカ軍曹は他の部下たちへ指示を出さなければならない。
「ウィルス、細菌、ガス、重金属、放射線の反応は無し。危険物は確認されなかったので隔離は必要なさそうですけど」
宇宙では未知の危険物も多い。開ける前に様々なチェックをしてから慎重に対応する必要がある。もちろん各宇宙ステーションには発着口にその設備が整っているので、安全を確認してから中に入るようにはなっているが。
「ドルモ大尉には俺から連絡しておく。アイリスでトラブルがあったにしろ、俺たちが行ける距離じゃない。他のステーションに任せるしかないだろう」
惑星間移動システムがあるとはいえ一年かかる距離だ、自分たちの任務を放ってやっていいことではない。それぐらい皆わかっているのだが、動揺したのはその音声の内容だった。残っていた音声はただ一言。
「天使」
宇宙に天使? 皆の顔にそう書かれているかのようだ。宇宙ステーションで生まれ育った二世、三世は多い。今の若者は地球に一度も行ったことがないくらいだ。
宇宙は自分たちの予想をはるかに超えるトラブルが数多く起きる。常に緊張状態が続きストレスも多いので、それを緩和するために宗教がプログラムとして持ち込まれることになった。
そのためここにいる者は全員キリスト教信者だ。神や天使の存在は自分たちを導いてくれる救いの存在だと信じている。実際は実在を信じているのではなく心のよりどころと割り切っているが。間違いなくいまわの際で残したであろう言葉に皆が動揺していた。
「何なんでしょうね、天使って」
「さすがに俺もカミサマにお会いしたことはないからわからん」
「連絡は無しか」
何度か大尉に連絡を送っているものの、チェックがつかないので見ていないらしい。現在建設中の小規模宇宙ステーションの進捗確認に行って百二十八時間。予定では九十六時間で帰ってくるはずだった。しかし予想以上に進捗が遅れているので、ケツ叩きの為にもう少し滞在すると連絡があったのがおよそ八時間前。
もちろん連絡待ちの間何もしていないわけではない。カイパーベルトのあたりで何が起きたのか調べるための情報収集をしている。
「何か連絡は」
超長距離の通信も一昔前は送るだけで数か月かかったものだが、今はタイムラグがおよそ三十分以内だ。それでも部下たちは首を振る。
「どこからも何も」
その言葉にビジターは眉間にしわを寄せる。
「どこからも? 八箇所に送っているのに全てからか」
「はい」
何も異常がなくて今調べているところなのだろうか、などと悠長なことを考えるわけない。宇宙では常に最悪の想定を前提に動く。
何かあった、それしかない。
ビジターの頭の中で組み立てられたシナリオは最悪のものだ。
(カイパーベルト周辺で大きなトラブルがあった。おそらくあの周辺のステーションは全滅している、この通信を残した者は最後の生き残りだったのかもしれない。自分が乗るわけにはいかない事情があり、一番近いこのステーションに着くように無人機として発進させた)
それなら辻褄が合う、というよりはそれしか考えられない。宇宙におけるトラブルは一分一秒の判断ミスが死に直結する。
「スクランブル! 責任は俺が取る!」
「え!? は、はい!」
最重要緊急事態、本来スクランブルコールは責任者しか唱えられないはずだが。ドルモがいないのなら次の階級ではビジターが責任者となる。降格処分を覚悟した判断だ。
「状況がつかめていないから戦闘配備をしておけ。どんな些細な変化も全て報告すること!」
「では、やはり」
「カイパーベルト周辺のステーションはおそらくすべてダメだ」
その言葉に部下たちに一気に緊張が走る。すぐに全員が自分の持ち場に向かった、その瞬間だった。オペレーターが叫ぶ。
「すべてのステーション、ロストです!」
ステーションの消失。その言葉に全員我が耳を疑った。ロストは文字通りいかなる手段を持ってしてもその存在を確認することができない。ありえないのだ。
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