第五十二話 今日は何の日?

 あれから数日経つが、日常に特に変化はない。

 四月に入って少しずつ春の訪れを感じてきた頃、愛結からあるメールが届いた。


[今日、めっちゃ大切な話あるで、家に来てほしい]


 文章からでも伝わってくるくらい、いつにも増して真剣な雰囲気だった。ここ最近は特に話してなかったし、大切な話なんて見当もつかない。

 朝、このメッセージを受け取った俺は、仕事が終わった後に何もないことを確認してから返信した。


[分かった]

[仕事終わってからだから、七時くらいになる]


 送ると、すぐに了解というスタンプが送られてくる。

 それに既読をつけて、朝ご飯を食べると俺は家を出た。


 仕事は残業なく終わり、定時で会社を出る。家政婦の皆には、友達の家に行ってくるから帰りが遅くなると伝えてある。どれだけ大切な話かは分からないけど、わざわざ呼んでくれたからには、時間を気にせず話を聞きたい。とは言っても、明日も仕事だから日付跨いだら困るんだけど。

 いつも通り家までの道を歩いて、途中の角を曲がる。さらに角を曲がると、愛結が最近引っ越してきたマンションが見えた。

 相変わらず外装が綺麗で、エントランスが広い。インターホンを押すと以前と同じように愛結の声がして、すぐに自動ドアが左右に開いた。

 エレベーターに乗って七階に行き、右に曲がって角部屋のインターホンを押すとすぐにドアが開いた。


「わざわざありがとう。上がって」

「おじゃまします」


 少しだけ、いつもより真剣な顔をした愛結に出迎えられ、俺は部屋の奥へと進んだ。愛結はキッチンで立ち止まって何かをしていたが、すぐにこちらに来た。手には、グラスが二つとお菓子があった。


「仕事終わりでそのまま来たんなら、お腹空いとるやろ。呼び出したのはうちだから、遠慮なく食べや」

「え、いいの? まじありがとう、お腹空いてたんだよ~」


 愛結の気遣いに感謝しつつ、丸いローテーブルに置かれたチョコを一つ手に取って、口の中に入れる。乾いたお腹にチョコの甘味がとけていって、口もお腹も満たしてくれた。

 その後で、グラスに注がれたオレンジジュースを飲んで一息吐くと、愛結の話を聞くことにする。


「それで、話したいことってなんだった?」


 俺の言葉を受けて、愛結は一旦俯いて考えているようだった。しかし、すぐに俺の方を真正面から見て、静かに息を吸い込んだ。


「実はさ……」


 意外とシリアスな空気に包まれて、俺はバレないように唾をのんだ。俺、何かしたっけ。それとも、職場で何かあったとか?

 今になって呼び出された理由を悠長に考えていたが、もちろん俺が結論を出す前に愛結が言い切った。


「美容師を辞めて、アイドルを目指すことにしたの」


 アイドルって、あの歌って踊るやつだよな? それを、愛結がやるのか? あんなに美容師になるために努力して地元でもアシスタントとして経験を積んで、これからって時に、アイドルに?

 俺は大きく息を吸い込んで、これでもかというほどゆっくりと吐きだした。


「……え?」


 そうして、出てきた言葉はそれだけだった。

 もう本当に、何と言ったらいいのか分からないほど、俺はこの上なく混乱していた。


「だから、アイドルを目指すことにしたの!」

「何で!?」


 やっと正常な質問ができた気がする。真剣に愛結の顔を見るが、愛結からは動揺が感じられない。


「だって、こっちに来たら、スカウトされたんやもん……」

「いや、だからって、そんな簡単に決めていいのかよ」

「簡単じゃないもん!!」


 愛結は大きな声で言うと、覚悟を決めたような目でこちらを見ていた。きっと、愛結も悩みぬいて決めたんだろう。だったら、その覚悟を俺が否定するのも違う気がした。


「……本気、なんだな」

「うん」

「だったら、納得できるとこまでちゃんとやるんだぞ」

「うん。うち、一人前の美容師になって、いつか店を開くから!!」

「……へ?」


 頷いて聞いていたのに、急に話がすり替わっていて、変な声が出てしまった。


「え、いや、アイドルは……」

「嘘に決まってるじゃん! 今日が何日で、何の日か覚えてないの?」


 その言葉にハッとしてスマホの時計を見ると、四月一日と記されている。

 つまり、エイプリルフールだ。まんまと、やられてしまった……。

 ため息を吐くと、愛結は楽しそうに笑っていた。


「りん君って、意外と騙されやすいよね~。そんなんじゃ、うちはりん君の将来が心配やわあ」

「どこ目線だよ!! あと、愛結が話があるって言うから、真剣に聞こうと思ってたんだからな!」


 愛結は一瞬目を見開いてから、すぐに細めて微笑んだ。


「へへ、それは嬉しい。ありがとう」


 素直にお礼を言われてしまうと、これ以上は何も言えない。どう反応していいか分からず、とりあえず飲みかけのオレンジジュースを喉に流し込んだ。


「それで、他に話はあるのか?」

「ううん? これだけ」

「まじかよ……」


 わざわざお菓子やらジュースやらを用意してまで、こんな茶番がしたかったのか。いや、むしろ一年でこの日にしかできないから、わざわざやったのかもしれないな。


「じゃあ、俺はそろそろ家に帰る。お菓子とか色々、ありがとな」

「こちらこそ、わざわざ来てくれてありがとう。家に帰ったら、家政婦さんが作ってくれたちゃんとしてご飯があるんやもんね?」

「茶化してんのか?」


 玄関まで行ったところで振り返ると、愛結は思いのほか寂しそうな顔をしていた。もう少しだけここにいてもいいかなとか思いそうになるが、恋人でもないのにそれもおかしいだろう。

 それに、寂しそうに見えたのは一瞬で、瞬きをした次の瞬間には、いつもの屈託なく笑う愛結に戻っていた。


「そりゃ、五人の女の子に囲まれて生活してる人がいたら、茶化したくもなるやろ~?」

「まあ、そうだな。どんな人生を送ったら、そんな状況になるんだって話だもんな」

「そうそう。まあ、違う女の子と話したくなったら、また来なよ」

「その言い方は来にくくなるだろ」


 ドアを開けながら言うと、後ろで愛結の笑う声がした。


「うそうそ、いつでも来ていいで」

「じゃあ、また来る」

「うん、いつでも待ってるよ。またねー!」

「おう」


 俺は右手を挙げて手を振ると、前を向いて歩き出した。

 ドアが閉まる音がしてから、鍵の閉まる音もする。前に来た時と、同じ音だ。

 まだ二回来ていないのに、このマンションに安心感を覚えている。きっと、ここに来たら、幼馴染という安心できる存在がいると知ってるからなんだろうな。

 これからも、愛結とはこういう関係であれたらいいな。

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