6【途切れない息】

 男湯の方から響いてくる賑やかな悲鳴が、雨音すら押しのけてはしゃぐ。どうも楽しくやっているようだ。

 いただいた温かいほうじ茶をゆっくりと冷ます。

 ほたるさんは、赤く照る囲炉裏に目を落としたまま動かない。

 けれどもそれは、何か後ろ向きな反芻に縛られての行為ではなく、待ち遠しいものを、真に待っていられる幸福を噛み締めているように思われた。

 恋と愛の狭間のやわらかさが、ほたるさんの白い頬に映って、篝火と揺れる。

 嗚呼私が絵を描く人間だったなら、この人を見て手がむずむずするんじゃないかってくらいに──その佇みは優美に在った。

 行灯庵の時間が過ぎてゆく。

 彼らの時間が過ぎてゆく。


 しばらくして男湯へと繋がる通路から、疲れを知らない賑やかな声が聞こえてきた。酔いもある程度抜けたのか、几帳面な面持ちに戻った出水さんが、しかしやはり火村に延々と話しかけていた。

「だいたいお前は毎回毎回タイミングが悪いのだ。無論あの事故はお前のせいじゃない。だがなあ、いなくなる前に一言くれたっていいだろう。いいや分かっているさ。言ったところでどうせいなくなるのだから意味など無いと言いたいのだろう。しかしそれはお前の都合だ。お前が苦しみを生むという苦しみに浸されるだけだ。事実が変わらないと言うならば、夢想の中で美しくいてやるのも、また男気ではないのか? ああん?」

「説教長いよお……」

 顔に塗りたくった化粧をすっかり失った火村が、勢いに押され傾きながらぼやいた。どうも、湯船の中でも全く同じ調子だったと見える。

 出水さんは真面目で実直な人間だと私は考えていたけれども、本当は違うのかもしれない。彼は本当は甘えたがりで喋りたがりなのだ。

 けれども頼れる者を失って、それでもと気を張り続けた結果がこれだと言うならば。

 私はほうじ茶に口を付けた。香ばしい薫りにほっとする。

 これでいい。これがいい。

 出水さんが火村浄太郎を、真に頼れる仲間であり、愚痴をぶつけても問題ないと断ずることの出来ると考えているのならば。そしてそれを、火村もまた受け入れているならば、部外者の私には関係ない。

 ただ、私には関係無くとも、そうでは済まない人もいる。ほたるさんだ。

 ほたるさんは盆に載せた三人分のほうじ茶を、囲炉裏の隣のちゃぶ台に静かに置いた。

 そうして、まったく晴れやかな表情で高らかに「身体冷えちゃうよ」と笑う。

 その瞬間の二人の顔と言ったら!

 まあどうもなんと言えばいいのだろう──『久しぶりに会った幼馴染が存外綺麗になっていて、その美しさにふと頬をはたかれてしまった』とか、そういう間抜けで子供っぽくて純朴で──

 思わず、保護者の立ち位置で笑ってしまう。

 この三人は昔から、ずっとこうで。明日からもずっとこう在って欲しい。公園で出会った子猫に元気でねと笑いかけるような、きっと私が将来子を抱くことがあったならば、存分に注ぎたいであろう感情が、不思議なほどに溢れてくる。

 すごすごと寄ってきて、とりあえずほうじ茶を啜る二人組は面白かった。一瞬で借りてきた猫という言葉を体現できるその素直さに敬意を表して、お茶で乾杯。

「なあ」

 視界の端に置き続けた真白い詐欺師が唐突に私に話しかけた。

「なんだ貴様せっかく無視してたのに」

「あ、やっぱり無視してたのかおめー」

 なに故この麗しく可愛らしい幼馴染たちの再会という胸の熱くなる展開をそっちのけで貴様に注目しなければならないのか。こちらは、ここ半年で貴様の顔などとっくに見飽きているのだ。春の魔女も夏の幽霊も、忘れ難い人生の思い出だけれども、お前が関係しているというだけで忘れたくって仕方が無いのだこちとら。

 出水さんと火村は下を向いて、偶にほたるさんの表情を窺ってはまた下を向く。思春期と呼ぶには図体がデカいが、しかいどうにもバカバカしい青さがあった。

 そんな男子の視線を知ってか知らずか、上機嫌にゆらゆらしているほたるさんは、やっぱり可愛らしい。この人の為に人生を捧げたいと願う男がいても不思議ではないと思わせる。妹のようで姉のようで母のようで、要するに魅力的な人だ。

 そんな美しき秋の大三角は、しかし角は丸く落ち着いていた。

 その空模様をじっと見上げて、けれども手を伸ばすことすら傲慢な、汚濁に塗れた黒白の駒が二対。

 全身黒装束の遺書代筆屋と、真白き身体に油のような瞳を嵌め込んだ詐欺師。

 世界の明暗がこれほど分かりやすく冴えていると、ため息も出そうになる。私が詐欺師とセットなことも業腹煮えた。

 そんな無言の空白が何拍か続いて、時計の針も鼓動を忘れようとしていた。肌を撫でるような優しい雨音だけが空間に飽和して、たぷたぷと意識が揺れる。

 だからその声は、何よりも強く響いた。

「ほたる」

 口を開いたのは火村だった。久方ぶりの安らかな休息に、すっかり堅の取れた彼は、しかしもう一度力を込め直す。

 柔和なだけでは、やさしいだけでは駄目なのだ。

 彼には、ほたるさんに伝えなければならないことがある。

 それは何となく察せられた。彼がほたるさんと二人きりになってから、ではなく、今言うことの意味。牽制と宣誓。

 その意気をまるで理解していないほたるさんは、のんきに「んえ?」と傾いた。

「俺はお前を迎えに来た」

 傾きは直ぐに直角に立つ。驚かされた動物の毛先みたいに尖って、代わりに小さく震え出す。火の差した頬で、彼女は口元を緊張に噛み締める。

 火村の影で、出水さんは面白くなさそうに憮然として、そっぽを向く。背を低くして目立たぬように。

『今この大事な瞬間ばかりは、自分の存在を消してしまうことも厭わない』

 それが彼の中で決定された苦渋の決断であることは明白で、けれども同時にその判断を下したという彼自身の強さは、隠匿の行為の最中でも強く、強く、感ぜられた。

 三人の世界を、二人の世界へ。それはかつて少年であった火村が犯した罪であり、同時に罰でもあったのだ。その報いを、ほたるさんのことを心から愛しているこんな二人は、今になって──十二年越しに仕返ししているのだ。

「絶対に幸せにする」

 囲炉裏の火が、赤い愛に燃えて弾けた。まるで世界がこの告白の背景足らんとしているようだった。

「待たせて悪かった。俺と一緒に来てくれ」

 それは明確に世界の変わる契機だった。良くも悪くも、世界が変わる。不満足な世界を破壊して、新たなる地平を踏む。平凡な人間は、自分の世界に不満を持っていて、それを破壊したくて──けれども安心出来ないというその一点に後ろ髪を引かれて立ち止まる。

 つまりは安心。安心に連なる信頼。

『倉木ほたるにとって、火村浄太郎は導に足るのか?』

 それを彼は問うている。

 ほたるさんは目を回して混乱した。茹ってしまったかのようにふらふら揺れて、その度に自分の頬を撫で回す。声を出そうとして、出なくって、そんな壊れた玩具のような挙動を繰り返して──

『ごめん』、と。

 謝ったのは、火村だった。

「そうだよな。いきなり混乱するようなことを言って済まなかった。色々考えた末の結論だったんだが、説明不足もいいところだ」

 その瞳は優しく、しかし腑抜けた大福のように頼りない。

 どうも焦っている自分自身に気付いたようだった。

 火村は正座を正す。

「話したいことが沢山ある。伝えたいことが──沢山ある。ごめん、今日は止めにしよう。俺もこの後出かける用事があるから、明日また話そう。でも一つだけ、今言わせて欲しい」

 その場にいた全員が息を呑んだ。

 大人が、大人へ。本気の好意を表すのだ。どれだけ複雑怪奇で、人の感情を海嘯と揺さぶるものが飛び出すのかと、全員が身構えた。

 火村は細く息を吸う。

 そして決して、裏返らぬようにと背に固い糸を張った声で

「愛してる。ずっと」

 そんな誰でも言える言葉を、誰よりも重く吐いた。

 




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