第7話 深淵への航路

深海500メートル。黎明は静かにその航路を南シナ海へと進めていた。暗く冷たい水の中で、艦体を包む静寂だけが船内に伝わる。外の見えない緊張感とは裏腹に、艦内では言葉にできない不安が乗組員たちの心を侵食していた。


「艦長、南シナ海への進入を確認しました。」

航海士が淡々と報告する。


風間悠馬はモニターを見つめながら静かに答えた。「予定通りだ。中国海軍の動きを探る。」


副艦長の大村修一は、一歩踏み出し、慎重な口調で言葉を選びながら問いかけた。

「艦長、本当にここに踏み込む必要があるのでしょうか? 米軍の背後に加え、中国とも接触する危険性があります。」


風間は目を細めた。

「必要だ。どの国にも属さない存在として、この艦が何を目指しているのかを示すためには、彼らの目の前に立つ必要がある。」


その言葉に大村は納得しきれない表情を浮かべたが、それ以上の反論はしなかった。艦長の信念が簡単に揺るがないことを、彼は誰よりも知っていた。


同じ頃、南シナ海の深海を航行していた中国海軍の最新鋭潜水艦「海龍」では、黎明を追尾する任務が密かに進行していた。艦橋に立つ艦長、陳華凌は、スクリーンに映るソナーの反応をじっと見つめていた。


「目標の反応を確認。日本の潜水艦である可能性が高いです。」

副艦長が報告する。


「いいだろう。これが例の黎明か。」

陳は低い声で答えた。その言葉には好奇心と警戒が混じっていた。


「接触しますか?」

副艦長の言葉に陳は少し考えた後、首を横に振った。

「まだだ。まずはこちらの存在を意識させ、次の出方を探る。」


海龍は、黎明との距離を徐々に詰めながら、静かに追尾を続けていた。その動きは、あからさまな挑発であり、意図的にプレッシャーをかけるものであった。


「艦長、中国海軍の潜水艦をソナーで確認しました。現在の距離は2000メートル。」

ソナー担当の乗組員が緊張した声で報告する。


「海龍です。高度なソナーと探査システムを搭載した潜水艦です。」

藤崎玲奈がデータを確認しながら付け加える。


「距離は?」

風間が短く問う。


「現在1900メートル、徐々に接近中です。」

乗組員の声が微かに震えている。


艦橋全体に緊張が走る中、大村が風間に尋ねた。

「艦長、どうされますか? 彼らは明らかにこちらを探知し、挑発しています。」


風間は冷静にモニターを見つめながら短く答えた。

「手を出すな。こちらの動きを最小限に抑え、相手の意図を探る。」


「それで押し通すつもりですか?」

大村は一瞬声を強めたが、風間の落ち着いた表情を見て口を閉じた。


距離が1200メートルまで縮まった頃、中国側の海龍が動きを変えた。低周波ソナーを使用し、黎明の正確な位置を掴もうとする明らかな挑発行動が始まる。


「低周波ソナーを確認! 我々の位置を明確にしようとしています!」

藤崎が鋭い声で警告を発する。


「EMPの準備を。」

風間の静かな指示に、藤崎が即座に応じる。

「EMPシステム、準備完了。」


「だが、まだ使うな。」

風間は低い声で続けた。「彼らがこちらをどう見ているのかを確かめる。それまでは動かない。」


艦橋の乗組員たちはその言葉に一瞬動揺したが、風間の沈着冷静な態度に次第に緊張が和らいでいった。


その頃、艦内の休憩スペースでは、若い技術士官が苛立ちを隠せずに声を上げていた。

「敵が接近してきているのに、何もしないなんて……。艦長の考えは正しいのか?」


「でも、EMPを使ったら、それこそ全面衝突になるだろう。」

整備士が静かに答える。「艦長はそれを避けてるんだよ。」


「避けてばかりでどうする? このままじゃ相手に舐められるだけだ。」

技術士官は拳を握りしめ、壁にぶつけた。


「お前、艦長を信じないのか?」

整備士が鋭い目で問いかけた。その問いに技術士官は何も答えられなかった。


最終的に、海龍は距離800メートルまで接近したが、それ以上の行動には出なかった。低周波ソナーの使用も止まり、徐々に距離を取る動きが見られた。


「反応が遠ざかっています。」

ソナー担当が報告する。


風間は短く頷き、静かに言葉を紡いだ。

「戦わずして、存在を示す。それがこの艦の使命だ。」


黎明は静かに航行を続けた。その影は深海の中で確かな存在感を放ち、次の展開を静かに待っていた。


黎明が南シナ海へ進入した情報は、すぐさまアメリカ国防総省に届いていた。ペンタゴンの地下作戦室では、国防長官と海軍作戦部長が、スクリーンに映る最新の衛星画像を見つめていた。


「中国の『海龍』が黎明を追尾中だ。」

海軍作戦部長のスティーブン・ホプキンスが低い声で報告する。


国防長官は苦い表情を浮かべた。

「日本の潜水艦が中国の影響圏に踏み込むとはな……だが、これは我々にとっても好機だ。」


ホプキンスは眉をひそめた。「好機?」


「そうだ。」

長官はスクリーンを指差した。「中国と黎明が正面から対峙する状況を作り出せれば、我々はその間隙を突くことができる。中国が衝突を避けるために動けば、黎明の存在を交渉材料として使える。」


「だが、風間艦長は単純な相手ではない。彼の行動は計算ずくのはずだ。」

ホプキンスは思案顔で呟いた。


国防長官は静かに笑みを浮かべた。「だからこそだ。風間が南シナ海で何をしようとしているのかを見極める。それが我々の次の手を決める鍵になる。」


一方、北京では習近平主席が南シナ海での緊張をリアルタイムで報告されていた。中国人民解放軍海軍総司令官の劉建国が、モニターに映る海龍と黎明の動きを指差しながら説明を進める。


「主席、黎明の行動は挑発的です。我々の影響圏内に進入しながら、いかなる攻撃も行っていません。ただし、これは明らかに戦略的意図を持った行動です。」


習近平は腕を組み、静かに答えた。

「その戦略的意図を明確にすることが重要だ。我々が下手に動けば、アメリカがそれを利用する。」


「しかし、主席、彼らを放置すれば、中国の威信が損なわれます。」

劉建国が声を強めた。「この海域で我々の支配力が揺らいだと見なされれば、他国の勢力が付け込んでくるでしょう。」


習近平は一瞬考え込み、やがて厳しい声で指示を出した。

「海龍に命じろ。黎明にさらに接近し、その意図を明確にさせる。だが、決して先に攻撃を仕掛けてはならない。」


黎明と海龍の距離は再び1000メートルに迫っていた。艦橋ではソナー担当が声を張り上げる。


「艦長、海龍が再び接近しています。現在の距離は900メートル!」


藤崎玲奈が追加のデータを確認しながら続ける。

「低周波ソナーを再び使用。おそらく、こちらの位置を完全に把握しようとしています。」


「艦長、どうされますか?」

大村が焦りを隠せない声で尋ねる。


風間悠馬は落ち着いた表情を崩さず、モニターを見つめたまま答えた。

「構わない。そのまま動きを観察しろ。」


「ですが……。」

大村がさらに口を開こうとした瞬間、ソナー担当が新たな情報を報告する。

「艦長、新たな反応を確認! 別方向からの接近があります。米軍の潜水艦と思われます!」


艦橋内が一瞬ざわめく。風間は即座に指示を出した。

「新しい反応の動きを監視しろ。米軍と中国がどう動くかを見極める。」


藤崎が緊張した声で応じる。

「もし両者が接触すれば、こちらにも影響が及ぶ可能性があります。」


「だからこそ静かに観察する。」

風間は短く答えた。その声には、一切の迷いがなかった。


南シナ海に展開している米軍の潜水艦「USSシーフォックス」では、艦長のジェームズ・ハドレーがスクリーンに映る海龍と黎明の位置を確認していた。


「面白い状況になってきたな。」

ハドレーは皮肉めいた笑みを浮かべた。「中国がどこまで踏み込むのか見物だ。」


副艦長が慎重に言葉を選んで言う。

「しかし、我々が接近すれば、中国側が我々の存在を挑発と捉える可能性があります。」


「挑発で構わないさ。」

ハドレーは冷静に言葉を返した。「目的は黎明の動きを把握すること。そして、彼らがどれほどの力を持っているのかを試すことだ。」


黎明の艦橋では、乗組員たちが次々と報告を上げていた。

「海龍との距離800メートル!」

「米軍潜水艦がさらに接近中!」


艦内はかつてない緊張感に包まれている。大村が険しい表情で風間を見た。

「艦長、この状況では、両者の間に挟まれる危険があります。」


風間は静かに答えた。

「どちらも攻撃を仕掛ける意思はない。だが、こちらが動けば、均衡が崩れる可能性が高い。」


「では、このまま耐えるのですか?」

大村の問いに、風間は短く頷いた。


「この静寂が答えになる。」

彼はそう言い放ち、モニター越しに深海の暗闇を見つめ続けた。


南シナ海の深海では、黎明、海龍、シーフォックスという3つの影が静かに対峙していた。それぞれの艦が次の一手を慎重に見極めている中、緊張の糸は徐々に張り詰めていく。


深海の静けさの中で、戦いはまだ始まっていない。しかし、その静寂こそが、最も危険な戦場であることを、風間も陳も、そしてハドレーも理解していた。

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