ARIS(アリス)
明日出木琴堂
EP001
この年齢になると同世代の同僚たちから出る話は、専ら昔の話ばかりだ。
失敗も成功も、幸福も不幸も、悲しみも楽しさも、記憶の引出しから引っ張り出されてくる。
幾ばくかは美化され、幾ばくかは脚色され。
しかし、私には…、
それがない。
ピッ
「お疲れ様でした。」
ピッ
「お疲れ様でした。」
ピッ
「お疲れ様でした。」
灰色の弁当箱のようなカードリーダーが、女性の人工音声で私に
『帰ろう…。』
長い拘束からやっと解き放たれる。
たいして何も入ってないナイロン製の黒のショルダーバッグ。
それすらも重く感じるほどに疲れている。
『何時から…、こんな生活を…。』
ここ数年、同じことばかりを考えてしまう。
重い脚を引きずるようにバス停に向かう。
仕事場からバス停まで歩いて12〜13分。
いつもと同じ16時18分着のバス。
それに間に合うように重い体にムチを打つ。
この次のバスは15分後には来る。
だが、私は可能な限り16時18分のバスに乗ろうとする。
16時18分のバスの到着までにバス停に着いたら、私はひと息つくこともなく右肩に掛けたナイロン製の黒のショルダーバッグから交通系ICカードと黒のビニールのカバーがついた手帳を取り出す。
そしてそれらをしっかりと右手に握る。
これでやっと…、ひと息つける…。
バスが到着したら、交通系ICカードを読み取らせいつもの席へ向かう。
いつもの席というのは、最後部にある一例につながった座席…。
その長い座席の真ん中…。
その座席はバスのフロアーの一番高い位置にあり、目の前には通路とバスのフロントガラスしかない見渡しの良い座席…。
私はなぜかそこに決めている。
理由があるわけでもない。
私にとってそこが、一番居心地の良い場所だから…。
私の仕事場は、郊外にある閑静なハイソサエティマンション。
そこで共用部の清掃のアルバイトをさせてもらっている。
郊外ということで交通の便はあまり良い方ではないが、ハイクラスな人々のために造られた街という土地柄、公共交通機関を使う人は少なく出退勤時に混雑することもない。
だから、私の決めている座席が占拠されていることはほぼない。
バスの乗車時間は、せいぜい10分。
バスの次は、JRに乗り換える。
だが私は、JR乗り換え駅のバス停までバスに乗車しない。
3つ手前の停留所でバスを降りる。
そこから歩いて駅に向かう。
ここで働き出した頃は、JRの乗り換え駅のバス停までバスに乗っていた。
しかしある日、駅前で交通渋滞が起きバスの到着時間が20分ほど遅れた。
その間に、私の乗りたい時刻発の電車は出発してしまっていた。
駅周辺には、駅前商店街や繁華街がある。
日によっては車や人が多く、バスの進行がままならないこともしばしばある。
今では、数分待てば次の電車が来ることは理解している。
ただあの当時の私は、わけが分からなくなり、乗り換え駅のホームでパニックを引き起こしてしまった。
その苦い経験から、駅前の混雑を回避するため、3つ手前の停留所から駅まで歩くことにした。
これで、私の決めている乗り換え時間に遅れることはなくなった。
私の乗りたい時刻の電車に乗れさえすれば、あとは自宅最寄り駅の駐輪場に置いてある薄汚れた白の自転車で家まで帰るだけ。
帰宅する時間を決めているわけではない。
だから、私の乗りたい電車にさえ乗れれば、この電車にトラブルが起こって遅延したとしても、私はパニックを引き起こすことはない。
最寄り駅に到着すると、駐輪場で薄汚れた白の自転車に乗り替えて自宅に向かう。
あとは、帰り道すがらいつものコンビニに寄って夕食を調達して家に戻るだけだ。
アルバイトのある日、私は必ず駅から家までの中間地点にあるコンビニで夕食を買う。
買う物はだいたい、菓子パン、甘いお菓子。
それと、紙パックのカフェオレ。
何故か、清掃のアルバイトをした日は、無性に甘い物を食べるようになった…。
この日も、いつもと代わり映えしない同じような物を買った。
自宅は、私が生まれる前からある、両親が新築で建てたものだ。
たぶん、築年数的には50年以上になる小さな平屋の一軒家。
赤ふ黒い屋根瓦に黄ばんだ白かった壁には出窓…。
三角屋根に四角の壁に田の字の窓…。
子供でも簡単に描けそうな、そんな見た目…。
ただ、大型バスが4〜5台余裕で停められる雑草が伸び放題の大きな庭がついている。
家の外観は築年数通り、かなりくたびれている。
しかし室内は、私が住むにあたり、兄がリノベーションを施してくれた。
兄には頭が上がらない。
私のアルバイトのシフトは一日おきだ。
出勤は、月・水・金の3日間。
だから、明日は休みとなる。
就寝までの数時間、だらだらとネットワークに触れ、明日の準備をし、風呂に入って、そして寝た。
明日の休みは、予約している病院へ行く。
≪続く≫
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