恋愛小説集 永遠の恋なんてないよ
蔵野依心
1K
すこし冷えた背中に、服を着なよ、と声をかける。暑いと消したエアコンのスイッチをもう一度入れ、煙草に夢中になっている膝にせめてもと毛布をかけた。
私たちはこの1Kで、幸せじゃない恋をしている。
ギターで食べていくと言って、この部屋に転がり込んできて、バイトをして、私は彼が音楽に時間を費やしているところをみたことがない。
尊敬したいけれど、できない、でも私が彼を大切にしなければ。と、思い続けてきた。こんな冷える夜は、なんだかさみしい、一人じゃないのに。
ぼんやりと浸った感傷。そのときふと、彼は呟いた。
「デビュー、決まったんだ」
だから別れてほしい。と。
その瞬間、感じたのは、驚きと、納得だった。そうか、私が知ろうとしなかっただけで彼は夢のために努力し続けていたのか、デビューなんて、すごいな。応援する恋人の仮面の裏で、定職に就かないのかな、なんて考えていた私には、言いづらかったのだろうな。
ぐるぐるといろんなことに気付いていく。
向こうを向いた彼は、いたって優しい声色で続ける。
「あなたのこと、好きだったよ。でもこれ以上、苦しいのは嫌やろ。お互い」
守らなければと思っていながら、苦しめていたんだな。そっか。喉の奥まであがってきた嗚咽のような願いを必死に押さえつけて、
「今までごめん。頑張ってね」
そう言うのが、精一杯の応援だ。
彼が部屋を出て行って、しばらくしてから、街でミュージックビデオが流れているのに何度か遭遇した。今も目の前で流れている。
私が聴こうともしなかった彼の音楽は、世の中の人々の心を掴んだようで、人気も鰻登りだと調べて知った。
デビューを飾った楽曲のタイトルは「飛翔」。
かっこいいギターを弾くんだな。なんて、いまさらのように。
誰かが彼の話をしているのをみたりきいたりするたびに、1Kで一緒に生活していたことを、申し訳なく思う。
凡庸な日々に縛り付ける鎖のように、私が在ったことを、けれど彼はついぞ責めなかった。それがたまらなく切なかった。
彼は、私がいない方が大丈夫なのだとようやっとわかった。
だから、私はもう、その人生に決して踏み入らない。
目の前で流れてミュージックビデオが終わる。すると、特別インタビューと題して、バンドのメンバーが、彼もいた、現れた。びくりと、身体が動かなくなった。
「ぼくらを飛ばせてくれた人たちのおかけで、たくさんの人に聴いてもらえてます」
「感謝の気持ちをこめた曲です。作った晴海がめちゃくちゃ気合い入ってましたね」
「そうだね」
そこで彼は、ーー晴海は、一度言葉を区切った。そして、しっかり前を、画面の向こうすら見るようにして、
「ずっと支えてくれた人に、届けば良いと思って作りました」
そこまで聴いて、私は、その場を離れた。
この後に及んで、なんて傲慢さ。
彼の支えの一旦になれていたらよかったのに、なんて、なんて愚かだろう。
ほかならぬ私が、一番、苦しめていたのに。
そう、私は、愚かだから、未だ考えてしまう。
どんな形でも、良いから。
晴海と幸せな恋をしたかったと。
かれの音楽とちゃんと向かいあっていたらと思う。けれどそれは今となっては考えても仕方ないことだった。
私は彼の人生にもう二度顔を出さないことを応援とした。
彼はやっと夢を、叶え始めた。
それだけがたしかで、引き払ってしまったあの1Kのように、わたしたちはすべてを、過去にしたのだから。
だから私だって、前を向かなければならないのに。
あの部屋に心を置き去りにしてしまったように、晴海の声がずっと、ずっと鳴り止まないんだ、
あなたのこと、好きだった。と、
苦しいのは嫌だという、その穏やかな声が、永遠にリフレインして、まるで呪いのように。
前に進めないことを彼のせいにするみたいな、そういう自分が、とても嫌いだ。
とてもとても、彼に見合う女ではなかったのだった。とてもくだらない、女なのだった。でもそれが私だと開き直ることはできない。
私は晴海が好きだったから、それは、出来なかった。
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