戸鞠鳥とまりは歩いている。古代の魔法都市の路地裏とか混沌の魔王城の赤い絨毯の上とか深淵に沈む神々の楽園に咲く花街道とか、あらゆるところを全部。

yusuke_kato

第1章

第1話 戸鞠鳥とまりの現在地点

 戸鞠鳥とまりどりとまりは不老不死でもあり不死身でもある。歳を取ることもなければ死ぬこともない。あらゆる傷はただちに修復され、たとえ存在が抹消されようとも即座に復活し、その存在は何者にも束縛されることはない。


 戸鞠鳥とまりは世界の始まりと共に生まれて、世界の終わりと共に消える存在である。いや、世界が始まるよりも先に生まれて、世界が終ろうとも何も変わらず生き続けるのかもしれない。


 少なくとも世界のことわりからは大きく外れた存在といえるだろう。


 つまり、戸鞠鳥とまりは人ではない。


 そして、戸鞠鳥とまりは世界の平和を愛する。


――


 その時、太陽を遮る黒い雲の下で、戸鞠鳥とまりは、ガザス森林地帯の端にある小さな丘に立ち、一つの国が滅びる様子を静かに眺めていた。その名前もない丘には林檎の木が一本だけ植えてあって、その木陰は少しだけ空気が澄んでいた。


 千年以上の歴史を持つ聖域、神の休息地、オークル王国は、光の首都であるハインツェルの大城を地獄の業火によって焼かれ、今まさに消滅しようとしている。天使の加護を失ってから百年あまり、人間の祈りによってのみ辛うじて支えられていた聖域は、いともたやすく焼き尽くされた。


 首都を失った聖国はそのまま瓦解を始めるだろう。もう間もなく寿命は尽き果てる。


「こんなところで観光かい?」


 ふいに隣から声がして、戸鞠鳥とまりは振り向いた。


 そこには黒い魔猫まびょうがいた。いつものように首から魔法式のピンホールカメラをぶら下げながらフワフワと宙を漂っている。


 黒い魔猫は戸鞠鳥とまりの返答を待つことなく、燃え盛るハインツェルの大城をパシャっと音を立てて撮影した。すると鈍い音と共に写真が紙に現像される。それを見た黒い魔猫は「フム」と言って頷き、懐から出した一冊のアルバムにその写真を収めた。


 戸鞠鳥とまりは答えた。


「散歩するつもりだったんだけどね。ついに燃やされちゃったから離れたところで眺めてるだけ。やることもないし」


 黒い魔猫は少し驚いた表情を浮かべた。


「なんだ、君がやったんじゃないのか」


「心外だな。ボクはやらないよ。燃やす理由が一つもないし、それにあそこには大きな図書館があったんだから」


黒い魔猫は「図書館?」とキョトンとした顔で考え込んだ。


「歴史の本がたくさんあったんだ。全部読みたかったんだけどね。少し間に合わなかった」


 聖オークル王国の建国と同時に設立された世界最高峰の魔法域図書館ユール・レ・ホバールには、歴代の国王の指揮の元に収集され続けた様々な分野の書物が所蔵されていた。


 書物のジャンルは幅広く、歴史や地理、天文、生物、魔法、建築、神学、哲学、科学、気象学、政治、法律、経済、学者たちの研究結果をまとめた論文の数々、教育、芸術などがあった。


 その他にも、料理本や家庭菜園の始め方、家計簿の付け方、魚のさばき方、誰よりも速く走る方法、動物の絵をうまく描く方法、人を簡単に騙す方法、効率的に木を数える方法、悪魔の呼び出し方、名も知らない個人の日記に至るまで、書物であれば全てが所蔵された。


 魔法域図書館ユール・レ・ホバールの特徴としては、分野や内容、言語、思想、著者などに関わらず所蔵対象条件を「書物であること」のみとしたこと、そして人種や国籍、年齢、性別を問わず誰もが自由に書物を閲覧する権利を有していたことがあげられる。


 特に聖オークル第38代国王であり最後の国王でもあるオークル三十八世は、歴代のどの国王よりも魔法域図書館ユール・レ・ホバールの完成に力を入れていたとされる。完璧で究極で平等で公平な魔法域図書館を夢見ていたのだ。


 しかし、今やその扉は閉ざされた。


 戸鞠鳥とまりの返答を受けて、黒い魔猫はさきほどよりも明らかに大きく目を見開いてから「よく分からないね」と呟いた。


「この世界の歴史なんて本を読まなくても君は全てを見てきただろう。それこそ世界の始まりから今に至るまでの全てを」


 黒い魔猫は大きく見開いた瞳を鋭く尖らせたが、戸鞠鳥とまりは気にすることもなく首を横に振る。


「それはであって人の歴史ではないよ。ボクは人のことも知っておきたいのさ」


 光の首都ハインツェルのあちらこちらで大きな黒煙が唸りを上げている。かつての聖域でさえも地獄の業火の暴力には対抗する手段を持たず、ゆがきしんで悲鳴を漏らしている。


 この遠く離れた丘からでも、その悲鳴と黒煙の匂いを直に感じ取ることができるだろう。


 黒い魔猫は「ん?」とまるで赤子のように首を傾げる。黒い魔猫には戸鞠鳥とまりの言葉を理解できない。理解するつもりもない。人の歴史などに何を期待しているのか判断がつかない。


「なぜそんなことを?」


 ポツン、ポツン、ポツンと黒煙を吸った雨が降り出した。嵐が来る。雷神・煌轟光こうごうこうが街を燃やし尽くす地獄の業火を仕方なく消そうとしているようである。それは一つの救いであった。


 黒い魔猫は雨に気がつくと、体をすっぽり覆いつくせるくらいの大きさの傘を懐から取り出して空に向けた。そしてブルブルと毛を逆立てる。


 戸鞠鳥とまりは雨に打たれても気にする素振りさえ見せず、燃え尽きて散り行くハインツェルの大城を見つめながら答えた。


「それはもちろん、暇だから」


 黒い魔猫は肩をすくめながら「へえ、そうかい。君のことはよく分からないね」と呆れた顔をした。それからしばらく遠くを眺めた後、白く光る懐中時計を取り出して「もうそろそろ帰るか」と呟いた。


 その時、冷たい風が戸鞠鳥とまりと黒い魔猫の間を通り過ぎていった。


 黒い魔猫はそのまま煙となって姿を消そうとしたが、すぐに思い直して戸鞠鳥とまりのほうを振り向いて言った。


「それにしても大国が滅びて残念だね。君の大好きな人間たちはまた一つ後退するわけだ」


 戸鞠鳥とまりはまた首を横に振る。その顔に表情はない。


「そうでもないよ」


 戸鞠鳥とまりは無表情のまま、ほんの少しだけ笑ったようだった。


「たとえ国が滅びても、しばらくしたらそこにはまた新しい国が誕生する。歴史は繰り返すってやつだね」


 そこにはもう黒い魔猫の姿はなかった。

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