第43話 ピグマリオン 最終話 武彦 8

それから、数ヶ月の月日が経過した。その間に美代子の腹は膨らみ続け、新たな命が宿っていることをひしひしと感じさせた。


そのことに最も喜びを感じていたのは、無論美代子であった。膨らんだ自分の腹を見る度に、喜びを表情に浮かべていたものだ。


その一方で、僕はそのことに何の感動も抱いていなかった。依然として、自分には無関係であるとしか思えなかったのだ。無論、父親が持つべき使命感なんて欠片も持っていない。


そんな中、いよいよその命は産まれようとしていた。それは桜が咲き始め、街が彩り豊かになった頃のことである。


出産日当日、僕は分娩室の外で待機していた。そうする以外には何もできず、故に退屈さすら覚えていた。そんな折、ふと譫言のようにこう呟く。

「一体、どんな子が産まれるのだろう」


美代子の出産は、かなり特殊な状況下で行われるのだ。何せ、性行為をせずに子供を身籠ったのだから。故に、これからどうなるのか想像もつかないのだった。


分娩室の中からは、助産師の声や美代子の呻き声が聞こえる。その声は、命の誕生が如何に凄絶なものであるかを実感させた。


その一方で、僕は自分でも不思議な程落ち着いていた。というより、当日となった今も現実味を感じられていなかったのだ。


そんな中、現在の美代子の様子を想像してみる。激しい痛みを和らげる為、腹式呼吸を繰り返す美代子。そんな美代子を支える助産師。両者共に、強い緊張感を持って出産と対峙しているはずだ。


その一方で、僕は何だか蚊帳の外にいるような気分にさえなっていた。また、この期に及んで、まだ明美のことを考えていた。というのも、ここ最近は明美について気になることがあるのだ。


明美を壊したあの日、僕はその腹が膨れていることを確認した。最初は見間違えかとすら思ったが、そうではなかった。確かに、妊婦のように腹が膨れていたのである。

「一体、明美に何があったというのだろう」


明美が妊娠した理由は、未だに良く分からない。ただ、気に掛かることがあった。


それは、明美と美代子の妊娠した時期が近いことである。また、どちらも突発的にそうなったという共通点がある。何か因果関係があるように思えるのだが、果たしてどうなのだろう。


そんなことを考えていると、今までより特段大きな呻き声が鳴り響いてきた。

「あ、あ、ああああああ!」

最早、それは人間の声とは思えぬものだった。それよりか、獣の咆哮に近いものだとすら言えるだろう。

「美代子は大丈夫だろうか?」


美代子のことは愛していないけれど、流石の僕も心配になってくる。きっと、男の僕には想像もできないような痛みが走っているのだろう。


そんな折、今度は助産師の必死な声が耳に届いてきた。

「大丈夫です。気をしっかり持って! 後少しの辛抱ですから!」


まるで自分のことであるかのように、助産師はサポートしてくれているようだ。それを思うと、心強い気持ちになる。

「どうか、無事に産まれてくれ」


興味が無かったはずなのに、気づけば両手を組みそう祈っていた。最早、自分の子であるか否かなんて関係ない。新しい命が無事に産まれて欲しいという思いだけが、その胸に宿っていた。


それから、どれ程こんな時間が続いたのだろう。その間は強い緊張を覚えていたが、やがてその時間は終了した。


分娩室の中からはしきりに呻き声が聞こえていたが、やがてそれは聞こえなくなった。恐らく、赤子が無事に産まれたということなのだろう。

「ようやく産まれたか」


きっと、これから笑顔を浮かべた助産師がこちらに来るはずだ。そして、僕に赤子の性別等を教えてくれるのだろう。映画等で見たあのシーンに、僕もまた立ち会うことになるのだ。


そう思い、助産師がこちらに来るのをただ待つ。しかし、中々こちらに来ようとしない。また、分娩室の中からは一切声がしないのだった。


普通、歓喜の声等が外からも響いてくるものではないのか。そう思うのだが、幾ら待ってもそれは一向に聞こえてこない。周囲に漂うのは不気味な静寂ばかりで、それが尚更不安にさせる。

「一体、どうしたっていうんだ?」


不安から、自然とそう呟いた。だが、呟いたところで何かが変わる訳もないのだ。

「行かなきゃ」


不安から居ても立っても居られなくなり、分娩室の中へ入ろうとする。助産師が中から出てきたのは、丁度その直後のことだった。

「た、大変なんです!」


助産師は何かに怯えているような表情を浮かべ、そう言った。その様子から見るに、何か只ならぬことが生じたのは間違いない。一体、現場では何が起こったというのだろう。

「どうされたんです? 何かあったんですか?」

「それが……」


助産師は二の句が告げないらしい。より困惑した表情を浮かべ、黙し続けている。

「中に入っていいですか?」

助産師はこくんと頷いた。僕は今までにない緊張を覚えつつも、分娩室の中へと入る。


その先には、天井を眺めている美代子の姿があった。疲弊により、身体はぐったりとしていた。その表情は上の空というか、何か信じられないものを見たかのようだった。


また、美代子があるものを抱えていることに気づいた。僕はそれを見て、衝撃のあまり思考停止する。そして、何か言葉を掛けてあげることすらできなくなってしまった。


美代子もまた、同様の状態になっているらしい。僕の姿を見ても、何も言葉を吐こうとしなかった。


そんな状態が暫し続いた後、僕はようやく口を開くことができた。それは、恐らく最も無難な言葉と言えるだろう。

「人形が産まれたんだね」


美代子が抱えていたものは、日本人形だったのである。どうやら、この人形が僕達の子供らしい。


美代子は少し間を開けた後、掠れた声で疑問を投げ掛ける。

「こうなることは知ってたの?」

「そんな訳ないだろ」

「どうして、こんなことになったの?」


そう聞かれ、自分なりにその原因を考えてみる。そして頭に浮かんできたものは、腹の膨れた明美の姿だった。


まるで妊婦のようなその腹。何かを伝えようとしているかのような表情。あの日見たそれらの光景は、僕に一つの推測をもたらした。


しかし、それは本当にそうなのだろうか。こんなことは有り得るのだろうか。


そうも考えたものの、現実的な推測は不要であるようにも思えた。何せ、これ程不思議な現象が連続して起きているのだから。


僕は沈黙を破るようにこう言った。

「もしかしたら、明美が産んだ子供なのかもしれない。僕は明美の腹が膨らんでいる様子を見たんだ」


美代子は信じられないといった表情をする。

「何を言ってるの? 人形が妊娠していたとでも言うつもり?」

「そうだよ」

「馬鹿げてる」

「確かにそうだな。でも、その馬鹿げた事態が起こったじゃないか」


この発言が、美代子の怒りに火を点けたらしい。疲れているのにも関わらず、ヒステリックに僕を怒鳴り付ける。

「何を言ってるのよ! 子供を産んだのは、この私よ!」


きっと、女としてのプライドを傷つけてしまったのだろう。あれ程苦しい思いをしたのだから、それも当然である。そのことに関しては、流石の僕も同情させられた。


しかし、それが事実であることは変えようがない。故に、僕は更に残酷な言葉を言い放つ。

「明美は、僕との子を身籠ったのかもしれない。けれど、人形には子宮が無いので出産できない。だから、僕との子を産む為美代子の子宮を媒介し、出産した。そういうことなのだと思う」


その推測に、確たる証拠がある訳ではない。ただ、確かに僕と明美は強い絆で結ばれていた。それが何らかの作用を及ぼし、二人の子が産まれたのではないかと思う。

「人形がそんなことを願うの?」

「人形には、きっと心があるのさ。持ち主に愛されていたら、魂が宿るのだと思う」


美代子は反論しようともしない。最早、そんな気さえ起きないようだった。深い絶望に叩き落とされたかのような表情をしたまま、僕から目を反らす。


僕はそんな美代子は放置することにして、赤子をその手から取った。そして、この腕で抱き締めてみる。


すると、何故かその赤子に愛情を抱き始めた。まるで、ずっとこの子が産まれてくることを望んでいたかのように。この瞬間から、僕は父親になったのかもしれない。


また、その顔を見ると幾つか分かったことがある。まず、性別は恐らく女の子である。顔は明美に良く似ていて、特に円らな瞳がそう思わせた。だが、どことなく僕に似ているようにも思う。それは、僕の子でもあるからだろう。


その愛らしい顔を見ている内に、胸は熱くなっていく。氷結していた心が解凍されたような、そんな気分だ。もしかしたら、この幸せを与える為に明美は妊娠したのかもしれない。


きっと、この子は明美からの贈り物なのだ。自分の代わりに、僕が愛情を与えられる相手を与えてくれたのだ。自分を壊した相手だと言うのに、少しも僕を憎んでいなかったのだろう。

「ありがとう、明美」


僕は亡き恋人にそう告げた後、再び赤子を見つめる。赤子は柔和な笑顔を浮かべていた。また、それは明美のそれを思わせるものでもあった。故に、より愛しさが増してくる。


ならば、僕がすべきことは一つだけだ。今度こそ、大切な人と傍に居続けるのだ。そして、どんな壁があろうと二人で乗り越えるべきなのだ。

「今度こそ君を守り抜くよ。例え、どんなことがあったとしても」


両手の力を強めると、そう固く心に誓った。窓からは一陣の風が差し込み、桜の花弁を部屋に招き入れた。











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奇譚 @kamori128

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