第41話 ピグマリオン 10 武彦 6

それから数ヶ月の時が経った、ある日のこと。

「こんなことして、何になるっていうんだ!」


僕はそう叫んだ後、ペンを放り出す。そして、それを拾おうともしない。元々原稿を書く為ペンを握っていたのに、この様である。


ここ最近は、こうして原稿を途中で投げ出すことが多くなっている。また、その原因は明美の死にあった。


最愛の恋人を失った今、生きる意味はあるのか。何をした所で、幸福を掴むことはできないのではないか。そんなことばかり考えるようになり、やがて仕事にすら意味を見出だせなくなったのである。


このように堕落した僕は、朝なのに手元にある酒を飲みだした。口元に広がるのは、アルコールの苦味。それを喉に流し込むと、やがて腹に熱いものを感じる。

「不味い」

僕はコップを置くと、吐き捨てるようにそう呟いた。


こうして不味い酒を飲んでいるのには、理由がある。それは、この空虚な現実を忘れる為だ。アルコールを摂取することで、現実とは異なる世界に連れて行って貰うのである。


ここ最近は、ずっとこんな状態が続いていた。毎日のように朝から酒を飲み、現実から逃げ出す。そして不明瞭な意識のままでいることで、心の痛みを和らげようとする。ただ、その繰り返しばかりである。


こんなことを続けているのは、間違いなく良くない。けれど、かといってこの生活をやめる気も起きないのだった。何せ、現実の世界には罪悪感と孤独の他には何も無いのだから。

「今の僕は、まるで麻薬中毒者だよ」


徐々に意識が不明瞭になっていく中、ふとそう呟いた。実際、酒に縋らないと生きていけなくなっていた。麻薬中毒者との違いは、依存先が異なることくらいだろう。


それが分かっていながら、更に酒をコップに入れる。味わう気等ないので、コップ一杯のそれを一気に飲む。すると、急速的に酔いが回ってきた。


不快な眠気が身体に襲い掛かり、僕は大の字になる。そうしていると、やがて視界はぼやけていった。そんな光景を見ていると、本当に異世界にワープしたような気分になる。


けれど、正気を完全に失った訳ではなかった。微かに残ったそれが、僕自身に疑問を投げ掛ける。

「お前は何をしてるんだ?」


一体、僕は何をしているというのだろう。こんなことをしても何にもならないことは、分かりきっているというのに。

「何をしてるんだろうな、僕は」


僕のやっていることは、何て馬鹿げているのだろう。あれだけの大罪を犯しておきながら、それに向き合うことすらできないのだ。自分の愚かさに、改めて嫌気が差してくる。


このように自己嫌悪に陥る中、意識は更に不明瞭になっていく。そして、猛烈な眠気が身体に襲い掛かってくるのだった。



それから、どれ程の時間が経過したのだろう。暫し眠りについていると、突如として意識は覚醒した。

「起きて! 起きてよ!」


それは美代子の声だった。どうやら、それが意識を覚醒させたらしい。未だに頭はぼんやりとしているが、それでもゆっくりと身体を起こす。


美代子は、僕から見て右手に正座していた。また、何か焦燥感に駆られたような表情を浮かべていた。一体、何があったというのか。


ただ、何にせよ僕にとってはどうでも良いことである。思えば、こうして酒ばかり飲むようになったのも、明美を殺す羽目になったのも、この女のせいなのだ。何が起ころうが、構うものか。


そう思い、再び眠りにつこうとする。だが、美代子の放った一言がそれを阻止した。

「私、どうやら妊娠したみたいなの」


それは、とても信じられないような言葉だった。何故なら、僕達は一度も性行為をしたことがないからだ。明美を壊した後ですら、とてもそんな気分にはなれず拒み続けていたのである。

「どういうことだ?」


僕がそう尋ねると、美代子は困惑した表情を浮かべる。

「わ、分からないのよ。何でこんなことになったのか」

「分からない? そんな訳ないだろ」

「だから、本当に分からないのよ!」


一体、美代子は何を言っているのだろう。どうして、自分のことなのに状況を把握していないというのか。何だか、からかわれているような気さえしてきた。

「一体、何の冗談なんだ?」

「冗談じゃないわよ! 妊娠検査だって受けたのよ!」


美代子は余裕を失っているようだ。また、その表情には苛立ちが募っているように見えた。

「陽性だったのか?」


僕がそう尋ねると、美代子は小さく頷いた。やがて、美代子の表情は徐々に崩れていく。不安や恐怖に今にも押し潰されそうな、そんな表情。それに加え、身体はがくがくと小刻みに震えていた。錯乱状態にあることは明らかであった。


その一方で、僕の心はやがて落ち着きを取り戻す。何故なら、ある単純な考えに行き着いたからだ。


きっと、美代子は誰か他の男と不倫したのだろう。そして、その男との子供を身籠ったのだ。一向に子供を産もうとしない僕に、愛想を尽かしたのである。

「どうせ、不倫したんだろう」


僕は冷たくそう言い放った。最早、怒る気にさえならない。端から美代子等愛しておらず、故に裏切りにすら腹が立たないのだ。


僕がそんな冷めた気分になっていた折、美代子は直ぐ様反論を口にする。

「する訳ないじゃない。もし仮に不倫をしてたら、堂々とこんなこと言わないわよ」


確かに、考えてみればそれもそのはずである。普通不倫相手の子供を身籠った場合、隠そうとするものだろう。では、どうして美代子は妊娠したというのだ。益々訳が分からなくなる。


思考が上手く纏まらなくなり、徐々に苛立ちが募る。

「じゃあ、何でお前は妊娠したんだ? 突如として、そのお腹に新しい命が芽吹いたとでも言うつもりなのか?」

「たぶん、そういうことなんだと思う」

「馬鹿馬鹿しい」


僕は吐き捨てるようにそう言うと、再び床に横になる。そもそも、この女の為に時間を割いたのが間違いだった。どうして、こんな馬鹿げた話を聞かされねばならないのだ。


僕が眠りにつこうとした後も、美代子は黙ってその場にいた。まだ何か言いたいことがあるのだろうか。けれど、一々付き合う気はない。


やがて、美代子は僕の気持ちを察したらしい。観念したように立ち上がると、静かにその場を去っていった。











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