第40話 ピグマリオン 9 武彦 5
遂にこの日が来てしまったとは。僕は片手に金槌をぶら下げたまま、溜め息を吐く。
その日の夜、僕は自分の部屋の前で立ち続けていた。中に入ることができないのは、これから自分がすべきことに強い抵抗を覚えているからだ。
僕は金槌を見つめながら、再び溜め息を吐く。
「やらなきゃならないのか……」
そう呟いたものの、未だに決心がつかない。何せ、これから最も大切なものを壊さねばならないのだから。そう簡単に踏ん切れる訳もない。
だが、僕ももういい大人である。幾らここで時間を消費したところで、どうにもならないことは分かっている。 金槌を強く握りしめると、ようやく部屋の中へと入った。
部屋の奥には、箪笥の上に置かれた明美の姿があった。その顔には、普段と変わりない微笑が浮かんでいる。それを見ると、この張り詰めた気持ちも少しは和らぐ。
しかし、これからはこの顔も見れなくなってしまうのだ。何せ、僕が何もかも壊してしまうのだから。
金槌を持った僕を見て、明美は何を思っただろう。それは分からないが、怖がらせないよう笑みを浮かべながら明美に近づく。そして、最期の言葉を交わすのだった。
「明美、今日でお別れだ。君とは長い付き合いだけど、これ以上一緒に居る訳にはいかないんだよ」
僕はそう言った後、金槌を明美の前に振り上げる。そして、それを振り下ろそうとした。
けれど、その手は動こうとしない。明美の優しい笑みを見ると、更に強い抵抗を覚えたからだ。
「何をやってるんだ、僕は。明美を壊さないと、僕が──」
僕は言い切る前に、その手を明美から離した。そして、目を閉じ深い溜め息を吐く。結局、明美を壊すことはできなかったのだ。
それも当然である。何せ、明美は唯一の恋人なのだから。それを壊すだなんて、できる訳がない。
僕は右腕を動かす代わりに、口を開く。
「どうして金槌を持っているのか、疑問に思っているだろう。実はな、それには理由があるんだ」
それから少し間を開けた後、再び言葉を吐く。
「美代子には、君のことを捨てろと言われた。でも、中々それはできなかったんだ。そしてそのまま数日が経った訳だが、美代子がそんなことを許してくれる訳もなかったんだ──」
そこまで説明したのだから、明美も大体の事情は察せたかもしれない。けれど、僕は更に説明を続けた。
「昨日、美代子に『あの人形を明日までに壊しなさい。さもないと──分かってるわね?』と言われたんだ。それを聞いた時、僕は抗議しようと思ったよ。でも、結局できなかったんだ。そうさ、君よりも世間体の方が大事だった訳なんだよ」
そこまで言った後、どれ程自分が身勝手なのか改めて気づかされた。ただでさえ、世間体を優先する為に明美と別れることを決意したのだ。また、それに加えこんな形で別れようとしているのである。
僕は本当に明美のことを愛しているのだろうか。本当は、自分しか愛していないのではないか。そんな自責の念が募り、尚更右手が動かなくなる。
やはり、こんなことはするべきではない。世間からどう思われようと、自分の愛を貫くべきではないか。
一瞬そうも考えたが、しかしそういう訳にはいかなかった。そう考えたのは、美代子や産まれくる子供の為ではない。ただ自分の為に壊すべきだと考えたのだ。
僕だって、もういい大人だ。子供みたく、社会と繋がっていない訳ではない。背負うものだって、徐々に増えてくる。そんな中、いつまでも子供のままでいられる訳がないのだ。
「明美、本当に申し訳ない。どうか、許してくれ」
震える声でそう言うと、金槌を明美に振り下ろす。そうすると、明美の指が一つ壊れてしまった。それを見た途端、心に激しい痛みが走る。
だが、一々心を痛める訳にもいかなかった。明美を見ないよう目を瞑ると、何度も金槌を振るった。
一体、明美はどうなっているのだろうか。途中でそう疑問に思ったものの、目は開けられなかった。そんなことをしたら、途中でこの手を止めてしまうだろうからだ。
暗闇の中、明美の壊れる音だけが延々と鳴り響いている。それを聞いていると、徐々に人間を殺しているような気分にさえなってきた。もしかしたら、明美の身体は肉と骨で構成されているのではないか。そんなことすら思う程に。
その不快な音は、正気を掻き消していく。罪悪感は音と共に増し、狂気は加速していく。
「あっ、ああああああ!」
気づけば、僕は発狂していた。けれど、それと同時に、頭の中には明美との思い出が輝き続けていた。
それらが浮かんでは消えていき、その度に胸は締め付けられる。何せ、今は正にそれを壊しているのだから。
ここにきて、僕はようやく気づく。僕が壊しているのは、明美だけではない。明美との思い出すら、壊しているのだと。
それが分かっていても尚、右手は止まろうとしない。まるで、壊れた機械のように同じ動きを繰り返し続ける。
一体、そんな状態がどれ程続いたのだろう。気づけば、僕は床を延々と叩き続けていた。そのことに気づくと、ようやく手を止める。
さて、明美はどのようになっているのだろう。ばらばらになったその様子を想像すると、怖くて中々目を開けられない。
けれど、そうも言ってられなかった。僕は徐々に目を開けつつ、それを見る。
視界に映った光景は、凄惨としか言い様がないものだった。明美の手足は全てばらばらになり、指も幾つか破損している。その美しい顔にすらひびが入っており、完成された美を崩していた。
「明美──僕は何てことを──」
仕方がないことは、僕自身も分かっている。けれど、その姿を見ると猛烈な悲しみを覚えるのだった。
最早、涙を浮かべることさえできない。その悲しさは胸に溜まったままで、放出することすらできないのだ。人間は本当に悲しいことが起こると、こうなるらしい。
ばらばらに砕け散ったその身体は、明美の命が尽きたことを告げていた。こんな姿になった以上、もう誰からも愛されないだろう。
明美は、玩具としての価値を消失してしまったのだ。最早、人形ですらなくなってしまったのである。
「明美、もう君とは会えないんだね」
僕はそう呟きながら、ばらばらになった破片を拾い上げていく。その小さな手足が、掌の中で一つとなっていく。
それらは、言わば思い出の残骸だった。つい先日まで、僕はこの一つ一つのパーツを愛していたのである。けれど、それも今では関係ない。一度ばらばらになってしまえば、何の意味も無くなってしまうのである。
僕は胸に悲しみを降り積もらせながら、胴体も拾おうとした。すると、その時になってあることに気づいた。
「何だこの膨らみは?」
というのも、明美の腹が膨らんでいたのである。断っておくが、元々こうだった訳ではない。つまり、人形であるにも関わらず、体型が変わった訳なのである。
見間違えたのかと思い、腕で目を擦る。そして再び明美の腹を見たが、やはり膨らんでいることに変わりなかった。
「どういうことだ。何が起こってるんだ?」
先程まで感じていた悲しみすら忘れ、ただただ動揺する。眼前に映る不可思議な光景を、未だに脳が受け入れられない。
また、その動揺はやがて得体の知れぬ恐怖へと変わっていった。まるで、明美の腹が妊婦のそれのように見えたからだ。
「まさか、明美は妊娠しているのか?」
自然と、そんな言葉が口元から飛び出す。だが、それはあまりにも馬鹿げた考えだった。子宮の無い人形が、妊娠できる訳がないではないか。僕はそう心の中で呟くと、この馬鹿げた考えを抹消しようとする。
しかし、それはできなかった。何故なら、現に人形の身体が膨らむという、不可思議な現象が発生しているからだ。 では、やはり明美は妊娠しているのだろうか。結局の所、何もかもが分からないままだ。
そんな折、ふと視界に明美の頭が入る。それは僕の方を見ており、笑顔を向けている。
それを見た途端、僕は戦慄した。その表情にはどこか切迫感があり、何事かを伝えようとしているかに思えたからだ。
「明美、一体君は何を伝えたいんだ?」
恐々とそう疑問を投げ掛けてみる。けれど、当然その答えが返ってくることはない。
部屋の中は、不気味な静寂感に包まれていた。それはまるで、これから何か一大事が起こることを告げているかのようだった。
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