第2話
ノックの音がして、どうぞと返事すると男がふたり入ってくる。せまい部屋だ。アルミの色のテーブルがまんなかを占めていよいよ窮屈に感じるのを、窓のそとの街路樹の緑が涼しげに揺れてせめてもの救いになっている。
ひとりは促されて
「田中さん」
一朗が呼びかけると、男はすばやく目を上げる。
かれの仕事の出来はたしかに良いものと言えなかった。きっと自分ではそれなりにちゃんとしているつもりなのだろうが、そう考えていること自体がなおさらかれの評価を下げることになった。
涯のない不毛なやりとりのあいだずっと一朗は男から目をそらさずかれの訴えを聞きつづけた。男はなんども汗を拭って、これまでまじめに働いてきたこと、これからだって一生懸命働いて会社の役に立つつもりであること、
「田中さん」
男がひと息ついたところで一朗は呼びかける。男は夢から覚めたばかりのような顔で一朗を見る。
二歳を過ぎてからの
ここでくだくだしく説明しなくとも、田中は自身の能力不足をうすうす感じているのかもしれない。そう仕向けたのは自分たちだと一朗は思う。改善のチャンスを与えたのはかれを救うためであるより多分にかれの無能を証明するためであったのだが、果たしてそれは必要だったのだろうか。
だれもが自分にはなにか取柄があると信じたいのだろうし可能性を夢みていたいものだろう。それがただの夢に過ぎないのだとしても心地よい夢からわざわざかれを引きずり出さなければならなかったのだろうか。
むろんかれの解雇は揺るがない。夢吉の死が避けられなかったように。どうしても死ぬ運命から逃れることはできないと、夢吉は知っていたのだろうか。さいごまで知らずにいたはずだと一朗は思う。そうであってほしいと思う。
男はさいごまで納得しなかった。自分が無能だと認めることはどうしてもできないのだろうと一朗は思う。認めてしまったら生きていけないのかもしれない。操り人形の糸が切れたらその瞬間その場に崩れ落ちてしまうように。支えをうしない二度と立ち上がれない人形のように。
「どうせ」
男はずるずると姿勢をくずしていく。目はさっきから一朗と合わせようとしない。
「どうしたって辞めなきゃならないんでしょ」
力なく言うと、ふるえる手にペンをもって書類に名前を書きはじめる。
糸のほとんど切れかけている男を一朗は感情をころして見まもる。
午後は惰性で流れていった。気がつけばまた電車に乗っていた。いつもの、山と谷に抱かれた町へと戻る電車に。
都会と町とを区切るながいトンネルを抜けた先はもうすっかり日が暮れている。 電車から外を眺めると、谷の底をくろい水が流れているのが見える。ふいに魚鱗が撥ねるように波がひかるのは、谷むこうの道路からとどくヘッドライトのせいだ。
やがて駅に着き、だれも待つ者のいない家へと歩きはじめる。ふと足もとでかちかち音がするのをなんだろうと見おろすと、サワガニが十匹ばかり月明りを浴び歩いている。なかでもあやうく踏みつぶすところだった靴のすぐよこの一匹はハサミを振り上げた姿だ。かれよりほかのサワガニたちはつぎつぎ小川の方へと歩いていくのを気にもかけず、かれのみはちいさなハサミを振り上げている。
はたしてかれは、彼我の力の差をもわきまえず刃向かうつもりなのか、それとも敵わぬと知ってなお生きるため巨人ほどにおおきな、あまりにもおおきな敵に精一杯の威嚇をしているのか。いずれにせよここで一朗にかかずらっているひまは、このカニにはないはずだ。先日の台風のとき川があふれたため山に打ち上げられたカニたちが、今夜月に乗じて川へ戻ろうとしているのだ。一朗はかれを避けて二歩ほど前へすすんでやる。
振りかえるといまさっきのサワガニはハサミをたたんで、他のカニたちに追いつこうと急ぎ歩いている。月がかれらの背中に照り映えて、いくつもの灯りが道を下っていくようだ。
ここでは山から小川がいくすじも流れ出て、線路に沿った川へとそそいでいる。その多くは川とも呼べないほどのほんとうにちいさな谷川だ。そんな小川のひとつを指してサワガニたちは道をわたっていく。一朗に踏まれず済んだカニたちも、ほかの人やあるいは車などに踏まれ、轢かれてついに川へは辿りつけないかもしれない。
それでもかれらは川を目指す。雨風に吹かれて迷いこんだ山々はかれらの故郷ではないのだ。
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