谷川に落ちた葉はどこへゆくのか

久里 琳

第1話


 家から駅まで歩くのがそれなりに運動だ。

 息を切らして急な上り坂を上りきると、あとは駅までだらだら下り坂がつづく。それさえなければ駅までもっと平坦な道になっていたろうに、無粋にそびえる丘にはびっしりちいさな家々がしがみついて、慇懃に歩行者たちを見下ろしている。

 そんな家のひとつを見上げれば、カーテンのかかったおおきな窓の撥ねかえす朝の太陽がまぶしい。いったん立ち止まって息を吐く。むかし四十を越したころにもう若くねえと同期のれんちゅうと笑いあったのをふと思い出す。

 長いひとり暮らしのあいだもたいして家事のスキルは身に着かないで、外食ばかりしていた。健康診断の数値は年を追うごとじわじわ悪くなっていって、とうとう要精密検査の判定が出たのもそのころだ。

 運動しなさいとか三食しっかり食べなさいとか医者は気軽に言うが、言われてかんたんに生活習慣が改善できるなら苦労はない。人間はもともと怠惰な生き物だ。おそらく人間にかぎらずすべての生物は、できようものなら安楽に生きたいと求めているにちがいない。

 今日解雇を申しわたす予定の男だってそうだ。

 これまで三度、改善のチャンスは与えた。そのつど男が出した結果は一度として会社が示した要求ラインを満たすことがなかった。

 それでもかれは解雇に納得しないだろう。理屈もなにもなくただ自分は救われるべきで、救われるはずだと甘く信じているだろう。

 効のない言葉をまきちらす男の顔が目に浮かぶ。かれは興奮で顔をまっかにし、なにか言うたび唾が机のうえに飛びちるだろう。崖っぷちに追いつめられた男の必死の抗議、詰問、非難に哀訴――ひとつひとつ想定問答を頭のなかで組み立てていく。恨みがましい目にはおだやかな諦念の目で返すことになるだろう。

 いやな仕事だ、とは思わない。これが仕事だ。

 ベッドから見上げる夢吉ゆめきちの目の光が思い出される。あの子の目には運命をうらむ色は微塵もなく、だからといって諦念というものもなかった。そもそもあの子は自分を待つ運命をどれだけ知っていたのだろうか。

 坂を上りきって丘のいただきに立つと、これから下る道のはるか先に駅が見える。線路に沿って流れる川は落葉にいちめん覆われている。丘から川へと吹きおろす風がつめたい。風は汗のしみたシャツのうえをすっと撫でて過ぎては背中をひえびえとさせる。

 少々甘ったれたところがあるとはいえ悪い男ではなかった、と一朗は思う。ただ仕事に関しては絶望的に無能だった。さいごの決裁を求めたとき社長はためいきをついて、

「そうですか」

 とだけ言った。社長が心中なにを思っていたのか一朗にはわからない。いずれにせよもう決したことだ。

 台風がこの谷あいの町を通り過ぎたのもそのころのことだった。風はひと晩じゅう猛威をふるって、びっしり急坂に張りついた家はみな丘から引きはがされないよう身をすくめてまんじりともしなかった。町の背後にそびえる山域の木々をほとんど溺れかけさせた水は余勢を駆って川を襲い駅の手前であふれて線路を浸したのに、いまは川底ですっかりおとなしくなっている。

 台風でじゅうぶん潤った山はだが、緑よりも黄や茶の色味が勝っている。太陽は日に日に衰えていたし、台風は夏を延命させるどころかむしろ秋の到来を決定づけたようだ。

 たとえ仕事ができなくともかれが会社をわれる必然性はないのかもしれない。すくなくとも社会参加する権利はある。無能であっても社会に害をなすような男ではないのだから。

「そのとおりです。だがそのため我々がなにもかも背負いこむというのでは民間企業には荷が重すぎる。公的なセーフティネットで支えるべきものです」

 中間報告で意見を求めた際、そう言って社長は縁なしのめがねをテーブルに置いた。

 だれもが名を知る大手製造メーカーを辞めて父親の会社を継いでからほぼ十年になる社長は、一朗よりいくつか年下にあたるはずだが白の目立つ髪と皺の刻まれた肌とがよほど年上の印象を与えた。十年まえはそうではなかったはずだが、と一朗は思い出す。

 妻だったひとの顔にはじめて皺を見つけたのは、ふたりで夢吉を見下ろしていたときだった。病室で、ふたり並んでパイプ椅子に座っていたときだ。三年ちかく通った病院のすみずみまで、一朗はいまでも思い出せる。

 おさない夢吉がはじめて積み木を見たのも病院のなかだった。他の子供たちが屈託なく散らかす積み木のひとつに触れようか触れまいか迷うようすでしばらく見ていたがけっきょく触らなかった。

 生まれつき心臓の弁が足りなかった夢吉はなんども手術をくりかえしていたせいかいつまでも貧弱な胸をしていて、他の子供たちのそばに並ぶとそれがなおさら目立つのだった。隠しておきたいものがどうしようもなく白日の下にさらされるのを一朗は正視できなかった。

 二歳の誕生日を迎えてすぐの通院検査の日に医師が告げた言葉はそのとき一朗の胸をふかく貫いて、いつまでも見えない血を流させている。

 妻はひとことも発しなかった。身じろぎひとつしない妻の顔を見ることが一朗にはできなかった。勇気がなかったのか思いやりがなかったのか狼狽のあまりなにもかもが頭から飛んでしまったのか――悔いることはたくさんあるがどうせ何度おなじ目にあっても正しく対処することなどできないだろう。どうすれば良かったのかいまでも一朗はわからない。

 気がつけば電車に乗っていた。去っていく線路のすぐよこを川が並走する。ほそい川水のうえにまだ青い落葉が浮かび流れて行く。


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