大切なことは、いつも足元に帰る。
せかけ
第1話 靴屋が嫌いだった私
変わり果てた街の風景に疲れた足を引きずって、あの狭い靴磨き屋へ向かう。
父親がやっている小さな店だ。
私、
常に足元にひれ伏しているような仕事、そんな父を恥ずかしいとさえ思った。
──こんな場所から早く脱出したい。
その一心でデザイナーを目指し、一人、都会へと飛び込んだ。だが、その夢は叶わず、一つさえ仕事をもらえた事はない。歳をとり、デザイナーとしての自分の価値がどんどん色褪せていくことに気づきながら、アルバイトに明け暮れている地獄のような毎日。実家には適当に理由をつけて殆ど帰っていなかった。だが、今日だけは、どうしても帰らなければならない理由があった。
「お帰り、久しぶりだな」
私が扉を開けると、父が目を上げてそう言った。相変わらず、気を使わない一言が彼らしい。それに、年を取ったなと思った。白髪が目立ち、肩が少し丸くなったように見える。でも、目の輝きは昔と変わらない。父が迎える時、私はどうしても素直に返事ができない。昔からこうだった。
「……ただいま」
自分でもよくわからない、ただ義務感で返事をしている。店に入ると、古びた木製のカウンター越しに、店内の独特な匂いが立ち込める。靴クリームと革の匂い、それにタバコの煙が混じった匂いがする。ここで過ごした子ども時代を思い出すと、どこか不安定な感情が湧いてきた。今となっては、ただの懐かしさとしか思えないが、当時はそれが本当に重荷だった。
「靴、磨くか?」
父の問いかけに、私は首を振った。
「いや、いいよ。ちょっと休んで帰るだけだから」
「そうか」
父はそれ以上何も言わず、私をそのまま座らせておいて、また手を動かし始めた。しばらく静寂が続く。店の中に流れる音は、父が擦る靴の音だけだった。
──何か、落ち着く。
私はそんな感情を抱いている自分に驚いた。都会の雑音に囲まれ、何かに追われるような日々の中だったからだろうか。小さな音がありがたく感じている。
「最近どうだ?」
「まあ、なんとかやってる」
「そうか」
父は何も言わず、また黙々と靴を磨き続ける。
すると今度は、父の手の動きが見ていて洗練されたものであると気づく。
父が何十年も靴を磨いているということに、初めて、凄いと思った。
「お前、疲れてるだろ?」
「えっ?」
見ていることに気付いたのだろうか。いやそれよりも、私はその言葉に驚いた。父が気を使うなんて、これまでなかったことだ。
「うん、まぁ」
「靴も傷んでるな、やっぱ磨いてやる」
返事はしなかった。言われるがまま足を差し出す。でも、何も言わず、私の靴を磨く手の動きが見ていて心地よかった。こうしてただ静かに過ごしている時間が、実は貴重なものだと気づくまで、私はどれほど長い間、都会の波に流されてきたのだろう。
「……」
無理に会話をしなくても、こうしてただ一緒にいることが、実は一番の心の支えになること。そのことに、今まで気づけなかった自分に、苛立ちを覚えだす。きっと、私は、父が嫌いでもなく、父の仕事が嫌だった訳でもなかったのだ。ただ馬鹿な私が、世間体ばかり気にしていたからこそ、こんなに簡単な幸せを見逃していたのだ。
「お父さん、今までごめんなさい私──」
言いかけて、言葉に詰まる。
言葉にはできない、抑えきれない想いが、
次から次へと涙腺を通して溢れ出てくる。
そんな私を見て、父が、言った。
「今日は泊まっていけ。ここはお前の家だ。
お前がいると、母さんも喜ぶ」
あまりにも素直すぎる言葉に、思わず胸が熱くなった。どうしてもっと早く気づかなかったんだろう。私が家を出てからずっと、父は一人でこの店を守ってきた。母が早くに他界し、私が殆ど実家に帰らない間、父が何をしているのかを考えもしなかった。でも、今、父のその一言で、私は初めてこの場所にいることを許されたような、安らぎを感じられる場所へと変わった気がした。
♢
「よく眠れたか?」
「うん」
腫れぼったくなった目をこすりながら、店の奥の棚に目をやった。そこには、父が長年使ってきた古い靴磨き道具が並んでいた。使い込まれたブラシ、擦り切れた布、ひび割れた革の手入れ用具。それらを目にした瞬間、これまでとは違って
何もかも愛おしく見えた。
「お父さん、私、今更だけど
このお店好きになれたよ」
「そうか」
その一言が、どれほど長い間、私の中で封じ込められていたのか。それを言った瞬間、いつも険しいはずの父の顔が少し柔らいだような気がした。
──目の前では、静かに仕事を続ける音だけが響いている。
私はその音に耳を澄ませながら、少しだけ目を閉じた。都会では、誰もが前に進むことばかりを求めている。でも、たまにはこうして足元を見つめ直すことも大切だと、今、心から思う。私はこれから、もう少しだけ、足元を大事にして生きようと誓った。
大切なことは、いつも足元に帰る。 せかけ @sekake
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