第2話 思いつき
彼女の久々の飛行は1時間半で終わりを告げた。もう少し楽しみたかった節はある。飛行はビュンビュンと風を切る音が、肌を締め付ける冷たさがとても心地いいし、人に見られては行けないから長距離の冬空を駆ける喜びは産まれてからそう何度も味わえないものだったから。
着地と共に潤んでしまった目をぱちぱちと瞬かせる。頬を伝った生暖かい液体は半ばで凍りついてしまった。氷と雪の国に生まれ育つドラゴンであるためにエルジェの体はいつも冷えている。だからそれは結晶になって伝い落ちることがなかった。
頬を汚し残留するそれを拭おうと手で軽く擦る。そう、これは高速飛行で目が乾いたせいで涙が出てるだけ。体の防衛本能で当たり前の現象だから仕方がないことなのだ、と納得させた。そうでなければ膝を着いてここから一歩も動きたくなくなってしまいそうだったから。自分の住む邸宅の灯りは煌々と着いていて、中からは夜にも関わらずバタバタと使用人が駆け回る音が聞こえる。恐らくパーティ会場の惨状を聞いてここに帰ってくると予測がついたのだろう。彼らはそう悪い人間では無いし、寧ろ此方を気遣うことだろう。だからこそ、帰る場所はここしかないのに行きたくないなんて思わされる。
なぜって、強がりで正体を晒したのは予定外の行動だからだ。彼女はきっと、恋をしていた。エルノア王子に、どうしようもないくらい。あの涙と咆哮はその恋があまりにも無惨に叩き割られてしまった悲しみと苦しみで溢れた痛みに他ならなかったのだろう。ため息をひとつ。
「はー……帰りたくない。というより屋敷に入って気遣われたく無い…なあ。」
軽く頭を抱える。本当は雪の中に倒れ伏してのたうち回りたい位だが、そうしたらドレスが汚れるのでそうもいかない。なんなら会場で帰りを待つべく使用人達の待合のような場所に居たはずの御者やメイドもすっかり忘れて空から帰宅したからきっとどうすればいいか困惑していることだろう。色々彼等も恩恵を受けているとはいえ厄介者を受け入れている養親なわけで。今よりも迷惑をかけるのは本意ではなかった。重い腰を上げて足を勧め、ノックを数回。
「た、ただいま戻りました。エルジェです。」
「エルジェお嬢様、おかえりなさいませ。お入りください。」
名を名乗ればすぐに扉が開いて彼女は予想に反して冷静な声音のメイドに囲まれる。あれよあれよと防音の魔術がしっかりかかった応接室に連れられて暖かいタオルや膝掛けで包まれ座らされた。反論する暇も寄越さないとは本当にたいした技術だ。大方屋敷の主人がこれから座るだろう椅子を前に、きゅう、と喉を鳴らすようにして息を飲む。ほどなくして屋敷の主人は入室し、珍しくも本当の意味で人払いをしていたようだった。
「おかえり、エルジェ。さて……単刀直入に行こう。エルノア王子に婚約破棄されたのは本当か?」
「本当に単刀直入ですね。少しは振られた義娘を慰めるとか無いんです?」
「世界の危機が掛かってる状況でそうも言ってられん。で?振られたんだな?契約はその場合どうなる。破棄か?」
焦った様子で問う屋敷の主人……自分を養育する役目を負ったサディス・ガルヴァリア侯爵はそのように演技しつつも諦めが瞳の奥に垣間見えた。当然だろう、魔法にも長けて知識深いこの侯爵ならば運命を担保にした契約の重さは扱わずとも分かる筈だ。最上級の契約であるそれは、現在では禁止され、やり方を知っただけで呪われて死ぬような代物。知る権利を持つ一部の国の首脳などは着任の際に秘密を知ることすら口をとざす別途の契約などが行われているし、何よりデメリットを嫌という程知っている立場が殆ど。つまり、どこかしらの先祖なりがそのような契約をして今も苦労して守り続けている立場だから破らないし、悪用もしない。行ったこともないが、随分海の向こうの科学が発展したとかいう───集合国の開発した、リボバライとかいうそれに近い悪辣さだとかなんとかこの養父がぼやいて居たはずだ。
「……私も細部は知らないので恐らく、ですが破棄ではなく不履行になるかと。」
「不履行…か。破棄ならまだ良かったのにな。待て、知らないだと?」
「ええ。知る人間が少ない方がいいのは確かですから『わたくし』が嫁いだ時に纏めて条件是正の実験もする予定でした。想定より一年手前に不履行となったわけですが。」
「まさしく契約を人質に取っていたというわけか。悪くない手だが息子の教育をしていればの話だったな……あの甘ちゃんの耳長め。」
養父が普段なら間違っても口にしない差別発言とともに王を誹るものだから基本的に黙っておくつもりだったのに思わず口を開いてしまう。ああ、本当にこの人の素はどこにあるのか未だに分からない。
「ちょっと、王への不敬罪で捕まっても知りませんよ?それ、王が死んだ方が良かったって意味ですからね。」
「その方がマシだろう。王弟様はそこそこお若く、賢いし上層部と一部の『心下』貴族は知っているが緊急時に王の魔法を引き継ぐのはあの方だ。王一人の命で済む破棄ならば、代償はそこまで。極端な話だが国の今後のことだけを考えればいい、しかし不履行となると代償がどれほど重いのかが分からない。」
エルジェとのやり取りがひと段落すると、眉間を揉みながらため息を吐いて、ガルヴァリア侯爵は背もたれに寄りかかった。自分の義娘として養育した存在が国を脅かす、というのは本物の忠誠を見せて国に仕える身からすれば絶望にも値するだろう。不思議とエルジェを責めることはしなかったが。だから、彼女は問いかけた。
「私を処分しようとはなさらないのですか?政治的には不利な立場でしょう。」
「何?処分、お前な…竜姫相手にそれが出来たら苦労しない。竜というのは一般種ならともかく、爵位持ちは運命を終えるまで殆ど死なないように出来ている。王族ともなれば当たり前にそれも備わってるだろうよ。……だから、人間の王族側の婚約破棄なんてあっちゃいけなかった。」
「全くですよね。私だって好きで選んでないのに。」
強がりで返した言葉に侯爵が吹き出して、エルジェは顔を羞恥で林檎のように染めた。どうやら侯爵のにやにやした顔と細めた目から察するに彼女がエルノア王子にぞっこんだったのはバレバレだったらしい。ぱたた、と膝に置いていた扇子を使って下品なほど激しく顔に風を当て涼んでからエルジェはひとつ切り出した。
「そこで、この国が滅びるにあたり提案があるのですが…聞いてくれます?」
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