第25話 体を作るものと、豪雨
基礎トレと呼ばれる練習が終わった時には、8時を大きく過ぎていた。
既にリングでは社会人組が集まったメンツでスパーリングなり、技の練習なりの稽古をしている。
ちなみに雅鳳の体重は50・2キロだった。16歳の同身長の平均値よりもやや軽い。実際、筋肉質ではあったが華奢だった。新体操では自体重を制御できて、演技時間1分数十秒をやりきるスタミナという意味では、そのくらいで丁度よかった。
だが、プロレスではそうはいかない「あと10キロ、いやせめて、5キロは増量しよう」とその場で晴波に言われた。
「……すいません、買い出し、付き合えないかもしれません」
初の稽古後、真っ赤に腫れた両手で小さな保冷剤を包むように持ちながら雅鳳は言った。
……稽古といってもまだまだ基礎体力トレ―ニングが主だった。それは入念なストレッチに始まり、プランク、腕立て伏せ、『
それをした上で、ようやくリングに上がり、まず先日スザクを手本に行った一通りのマット運動。
それから基礎的な受け身の練習。これが雅鳳にはとてつもなく長く感じた。
まず座った状態から、両腕を広げて後ろに倒れ、背中が接すると同時にマットを叩く後ろ受け身。次に膝立ちから前に倒れ、顔の前で肘から先でマットを叩く前受身。そして仰向けから両手両足を上げて、勢いよく寝返りを打つような横受身。
このリングのマットが畳のように固く感じた。先日、マイクロバスの中で知花選手から『リングにはスプリングが仕込まれている』と聞いたが、とてもではないが新体操のマットのそれとは比にならない硬さだった。
……無理もない、金属製の枠の上に木の板を連ねて、その上に厚さ1センチほどのゴムマットとフェルトマットを敷いて、キャンバスと呼ばれる防水カバーをかけたものが標準的なプロレスのリングのマットである。硬さでいえば剣道場の板敷きに緩衝ゴムとカーペットを敷いたのとさして変わらない。
この受け身練習はそのリングのマットの上で、晴嵐がよしというまで同じ動きを、タイミングや所作の細かい修正指示を受けながら延々と続ける。だいたい1時間以上はこれだけを繰り返した。
そのくらい経った頃に所属選手の社会人組が稽古にきてしまい、それをもって「今日の受け身はここまで」となった。
そこから先輩方のロープワークに混ざる形で初めてのロープワークは始まった。
「おーい、声出せ、声!」
「ガブちゃーん、今日が一番きつい日だと思ってー!」
大人の男女入り混じって、リングサイドからそう煽られて、雅鳳から出た声はほとんど裏声の悲鳴だった。
太い鋼線の入ったリングロープに体重を掛けるだけで背中の薄い脂肪が肌の下で弾け散りそうなほど痛い。
リングロープ中央めがけて走り、振り返りつつ右腕をガイドとして先に接触させてから、ロープに背を当てる。その反動と言うより、ほとんど体重を掛ける痛みから逃げ出すようにまた対面のロープに大股走る。
晴嵐やキャリアの長い選手たちの手本は、鉄線をゴムで巻いたものが体重をしっかり受けてしなって見えるほどしっかり体重をかけてから反動で走っている。その領域までいくのに、どれだけかかるのか想像できなかった。
交錯しながら二人同時にロープワークをするのを見つつ、自分の順番が再び巡ってくるのを待ちながらつい眼の前の先輩に聞いてしまった。
「痛くないんですか?」
「痛いよ? 最初はアザにもなる。けど体のほうが慣れてくるし、痛みも受け入れられるようになる。というか、受け身でどうにかできない痛みは受け入れるしかない。それがプロレス」
それを聞いて、頭によぎる『受け身こそプロレスの美学』というフレーズ。そして自分がスザク氏に初めて会った日に言ってしまった『痛みの中で自分の精神的苦痛を発散したい』という主旨の言葉。
言ってしまったからには、そして練習生になってしまったからには、受け止めるしかない。
「……はい」
その返事を、質問に応えてくれた先輩は鼻で笑ってリングに入り、ロープを軋ませて走り回っていた。
……それから解放されたのがだいたい、8時15分頃である。きっかけは4階からの内線だった。
その頃には外は大雨と言っていい雨音に、稲光と落雷の音が混ざるようになっていた。
電話を取りに行った晴嵐が
『ご飯炊けてないよ。今スイッチ入れたけど』
という言葉。
「あー炊飯の予約忘れたー」
という晴波の大声と共に、その日の雅鳳の稽古は終わった。
「おつかれさまでした。お先に失礼します」
そう頭を下げてからリングを降り、リングサイドに敷き詰められた体育マットの上で、じっくりと伸ばすストレッチをした。
特に新体操ではほとんど扱わない首周りの筋肉を筋肉痛を懸念して入念に伸ばした。
それが済んだところで、改めてリングの内外で各自トレーニング中の先輩方に頭を下げ、リングシューズを脱いでサンダルに履き替え、4階に戻る。
道場正面口から外に出ると、土砂降りといっていい勢いの雨が降っていた、2人で小走りで玄関に周り、暗証番号を押してロックを外して中に入る。
体は、トレーニングウェアのティーシャツの上から叩きつける雨が涼しく感じるほど、全身の筋肉が熱っぽく、重たく、だるかった。4階の階段もスーツケースをかついで上がった昼間よりもはるかに長く思えたほどだ。
4階に登り切る間にも、空が一瞬光った。雷の音はしない。これにひーっと二人して声をあげた。
玄関のドアをあけてすぐに、晴波はサンダルを脱ぎ捨てた。
「オヤジー、ごめーん」
玄関から晴波が大声でそう言った。
「しょうがないからパック飯レンチンしたよ」
「すみませーん」
続いて汗塗れのままリビングまで進みながら、雅鳳も頭を下げる。
「いいのいいの、初日だし失敗はあるもんだよ。それよりがぶちゃん、プロテインちゃんと飲んで。ウォーターサーバーの横の下の戸棚にあるから。好きな味の飲んで」
「なにまた買ったの? 飲みきってないの何袋あると思ってんのさ」
「いやしょうがないじゃん、安かったし、見たことないフレーバーだったんだから」
「今度はなに味」
「マンゴー味」
「……ためしてみます」
「いや、付き合わなくていいよ。好きなの飲んで。あっ……ピープロテインって書いてあるやつだけ勘弁して、それ私用だから。ソイプロテインよりちょっと高いんだわ」
「わかりました……」
そう返事をして、疲労で震える手でBCAAを飲み干したボトルに水を入れ、『スイートココア味』のホエイプロテインの大袋を掴みだし、裏書きを見た。
備え付けの計量スプーンのすりきり3杯で1食、タンパク質量は21グラム。
それを見て、少し考え、山盛り3杯ほどすくってボトルの水に落とした。
新体操部時代の部活終わりなら、先に米少なめで食事を先にとってから、プロテインは不足分を補う程度にしていただろう。
だが、この後買い出しがある上、それから帰ってきても米が炊けているとは限らない。ホエイプロテインの吸収速度と運動後のアミノ酸摂取のことを考えると、今しっかり取っておいたほうがいいと考えたのだ。
1度の食事で吸収できるタンパク質は約40グラムと言われている。帰ってきてから魚を焼いて食べたら、もしかしたら一度の吸収上限を超えてしまうかもしれない。だがそれでも、先程までの過酷な運動量をきちんと体に定着させたかった。
プロテインの袋を封をして戻し、ドリンクボトルを蓋をして振った。
しんどい。肩や肘で振ると腕が重くて、手首を返すようにして振る。
しばらく振りながら、手のひらが妙に熱い、いや痛いことに気づいた。
ドリンクボトルを持ち替えて、右手を見ると、内側の指の付け根に3か所、ふやけたように皮膚が浮き上がったところができていた。マメができて、潰れたのだ。
それを見て、また徐々に冷えてきた全身の筋肉が重くこわばっていくのを感じながら、静かに雅鳳の心が折れた。
新体操でも手はよく使う、だからそれなりに掌の皮は固くなっているつもりだった。だがリングでの受け身の稽古は平気でそれを越えてきたということだ。
ため息をついて、左手でボトルを振りながら、冷凍庫で見た大量の小さな保冷剤を思い出した。
「保冷剤、一個借ります」
「いいけど、どこか痛めた?」
キッチンの魚焼きグリルの前でアジの具合をみながら、スザク社長が軽い口調で聞いてきた。
「いや、手にマメができまして……こんなに長時間力いっぱいバチンバチンやったの初めてで」
そういいながら、右手を見せた。
それをみて、社長は乾いた笑いを返してくれる。
力なく笑み返して、雅鳳は右手の指先で冷凍庫の中の保冷剤を一つ取り出して、握った。保冷剤のすぐそばには数本のあずきバーがささっていた。
(住所教えてもらった時、一本くれるって言ってたけど、ご飯前はだめだよね……)
ちょうどそこに練習着からティーシャツとデニム姿に着替えた晴波がリビングに来る。その肩には財布と携帯が入っていると思しきポーチをさげている。
「ん、どした。アザになっちゃった?」
保冷剤を手にした雅鳳を見て、心配そうに駆け寄ってきた。そして保冷剤を握り込んだ右手を開かせた。
「いえ、マメが潰れただけです。皮も剥けてないんで、落ち着いたら消毒します」
「テーピング、する?」
「いや、今はそこまでは。あとでお風呂も入りますし……大丈夫です」
「あんまり遠慮しないでね。明日も同じことやるし、風呂上がったら声かけて。テープ張るの手伝う。あとでストレッチポールとマッサージガン貸すから。使い方わかるでしょ?」
「わかります。助かります……それよりちょっと……」
……言い難かった、だが初日から本当にこんなにも全身をいじめ抜くとは思っていなかった。
「ん?」
「スーパーって、北多摩川駅前のあそこですよね?」
「うん」
「歩き……ですよね?」
雅鳳は正直にいってもう靴を履いて外出するだけの余力がなかった。ましてや、傘をさして食材のつまったエコバックを担いで往復10分……軽めの地獄に思えた。
「うん……あっ、私一人でちゃっちゃと行ってこようか。多分その方が早いし」
暗に休んでいいというような晴波の言葉が、雅鳳には甘く聞こえた。
振っていたボトルを戸棚の上に置き、空になった真っ赤に腫れた両手で拝むように保冷剤をもって、雅鳳は晴波に頭を下げた。
「……すみません――」
買い出しに付き添えないと白状すると、晴波はあっさりと頷いて、丸まった雅鳳の華奢な背中をぽんぽんと擦った。
「うんうん。初日だし、よく頑張ったよ。魚自分で焼ける? 手伝う?」
「いえ、そのくらいは自分でできます」
「明日のお昼、食べたいものある? 今食べたいものでもいいけど」
「お昼……さっぱりしたものですかね。なんか、気が重くなっちゃって……」
「まじか……わかった、冷やし中華か、棒々鶏とそうめんでいい?」
「ああ、いいですね。っていうか、すみません」
「じゃ、ちょっと鶏むねと野菜と、なんか特売になってるの、テキトーに買ってくるわ……あ、ササミのほうがいい?」
「あ……じゃあ、安くて多い方で」
それをきいて、晴波はふっと笑んで、「わかった」と言いながら一度部屋にひっこんだ。
次に彼女が出てきた時は防水と思しき光沢のある前開きのフーディを羽織っており、廊下近くの電話の充電器の並んだ棚横のエコバッグと二袋と自転車の鍵をつかんで、小走りに出ていった。
そのやりとりを黙って見ていたスザク社長が、焼き上がったアジの皿を手に食卓に戻った。
「やっぱりタフだねぇ」
「晴波さんですか?」
「いや、君だよ」
「……え?」
意外な言葉だった。
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