第4話

 真夜中。

 枕元に置いたスマートフォンには、一時間前に母から、葬儀の予定と戸締りやガスを注意してくださいとのメッセージが届いていた。

 時刻を確認すると午前一時をすこしまわったところだった。

 一度眠りに就くと朝まで目が覚めないことが多い朋子にとって、夜中の覚醒はやや不快だ。

 言われるまでもなく帰宅後すぐに家のドアや窓の施錠は確認した。給湯機以外のガスは使っていない。

 夜中に風呂に入るというのもいささか空恐ろしく思ったが、子どもじゃないのだからと普段と同じように一時間ほどかけて入浴を済ませた。

 亡くなったのは父方の大叔父。春先に体調を崩し長いこと入院していた。白寿を過ぎた大往生だった。大叔父が暮らしていたのは朋子の住む街から高速を使って二時間以上かかる土地、朋子が小学生だった時分には、それでも毎年正月には顔を合わせていたが、朋子が高校に入学してバドミントンに入れ込んで以降は部活に忙しくめっきり会うこともなくなった。最後に顔を見たのは五六年前、従兄の結婚式だったように記憶している。

 思い出が一箇所小さく欠け落ちたような些細な喪失感はある。だがそれだけだ。

 それにしても、危篤の知らせを受けたならば夜中に急いで出向くようなことも考えられるが、亡くなっているのならばそこまで慌てて出かける必要もないだろうにと思う。朋子が縁遠いと勝手に思っていた大叔父だが、両親にとっては違うのかもしれない。

「えっ」

 一階から物音がした。

 朋子は点けたままにしていたスマホを暗転させ、耳を澄ませた。

 なにか落ちたのか。朋子が夕食後の食器洗いを担当した場合、乱雑に積み上げた食器や調理器具が夜中に崩れて音を立てることは間々ある。しかし今日は、帰宅後食器類には一切手を触れていない。水もペットボトルから直接飲んだ。

 どうしようと考える。

 朋子は今、帰宅途中に遭遇した不穏な影を思い出している。

 がんッ。思わず喉が鳴った。咄嗟に朋子は口を押さえ、スマホを再度起ち上げた。警察に連絡すべきか。

 予定を変更して両親が一度戻ってきたのかもしれない。物音を立てぬようベッドから降り、やはり静かに窓のカーテンを開けた。朋子の部屋から玄関ポーチが見下ろせる。父の車はない。帰ってきたときはその存在の有無などまるで気にしていなかったが。

 朋子はスマホを手に部屋のドアノブに手を掛けた。

 今は物音は止んでいる。

 きっと何もない。滅多なことは滅多に起こらないからこそ滅多なことなのだ。

 戸を開け、そろりと廊下に顔を出す。奥にある窓から月明りが見えた。霧は晴れたのか。家の中は静まり返っている。

 板が軋まないよう細心の注意を払って階段を降りる。

 どうせなにもない。大丈夫だといい聞かせ、朋子は階段を降りた。

 一階には居間と台所、両親の寝室、書斎、客間兼仏間、トイレと風呂、納戸がある。

 階段を降りてまず見えるのは玄関、異常なし。トイレを覗く、棚から物が落ちたりしているようなこともない。納戸のなかに積み上げられた父の趣味の品々が雪崩でも起こしたか。そういえば二度ほどコースを廻って、それから手をつけていないゴルフセットがあったはずだ。想像したくもないことだが仮にナニモノかと遭遇した場合、なにも持っていないよりもゴルフクラブでもあれば断然安心感がある。

 納戸に向かう途中、開けたままにしていた扉から居間を覗いた。

 内側のカーテンに隙間ができ、外側のレースのカーテンから外の明かりが漏れている。

 首を伸ばし、中を覗く。物音はない、なにもない。明かりを点けて確認するのが手っ取り早いと思ったが、もし仮に明るくしたことで潜んでいるナニモノかを刺激してしまったらなどと考えてしまうともう駄目だった。

 しばらく待った。朋子の体感では一分以上、実際は十秒ほど。

 生唾を飲む、その音ばかりが耳にうるさい。

 胃の腑から空気の塊がせり上がってきた。音を殺して吐き出すと、口の端からよだれが垂れた。

「やだ」

 朋子は急に馬鹿らしくなった。

 なんだか目も冴えてしまい、アイスでも食べようかと半端に隙間の空いたカーテンを閉めようと居間の大窓に近寄った。

 母が選んだ鶯色のカーテンの両端をつかみ、両手を合わせるように隙間を埋める。

 待て。

 居間のカーテンはしっかり閉じて寝た。間違いない。

 玄関から激しい音が鳴った。

「ひっ!」

 玄関のドアノブが動いている、激しく強く何度も。やはりあの油と血に塗れた男がやって来たのだ。朋子はその場に尻餅を搗いた。勢い手からスマホが滑り落ちる。ドアノブが激しく音を立てつづける、ガンガンガチャガチャ、無理やりにでも開けようと激しく揺さぶっている。扉も揺すられる。力任せにこじ開けようと、

 警察に通報をと、そこでやっと思った。

「で、電話……電話を、」

 スマホを探す、どうして持ってない、手に持って自室から出てきたはずだないはずはない、部屋まで取りに行くか、ガアン!「ひいいいいいッ!」

 眩暈に襲われる。激しい眩暈、まるで嵐の夜のようだ、目の前が暗転する、月明りが翳る、音が鳴る、強く怖い音が、ガアン! ガアン! ガアン! ガンガン、ガン! ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガン!

 どうして化け物が襲ってくる? 嗚呼わたしは馬鹿だ居間には備え付けの電話があるではないか。父も母もいまでは携帯電話を持っているが、基本的な連絡はいまだに普通の固定電話で行っている。腰が立たない、手を突き膝を擦ってどうにか電話機までたどりつかなくては。

 怖い怖い怖い怖い。化け物は理不尽だ、ただ顔を合わせただけで、そこに居合わせただけで付け狙われてしまう。本当に理不尽だ。怖い。

「誰か助けてっ……」

 這うようにして逃げる。落としたスマホが手に当たるも、朋子は気づかない。音がやんだ。朋子はまるで難を逃れた亀のように首をもたげ耳を澄ませた。

 諦めたのか。

 幽霊のたぐいが物理的な障壁に屈するのもおかしな話だと思うが、ともかく立派なドアで助かった。無意識に声が漏れている。気づいたら吸うばかりでまったく息を吐き出していなかった。

 ゆっくり深呼吸をした。驚異は本当に去ったのか。少し冷静になるとこの状況で警察を呼んでいいものなのだろうか。余計なことばかりが気に懸かる。

 神は細部に宿るという。誰が言ったかは知らない、美術関連の言葉だったか。しかし些末な部分に拘泥する人間は、あまりしあわせになれない。

 じゅうぶん待った。

 もう音はしない。

 荒れていた朋子の息も今は整っている。もう大丈夫、怖いものは去った。

 朋子は酷くゆっくりとした動きで立ち上がった。

 恐怖は去っ

 窓が粉砕された。

「あああっ!」

 カーテンを突き破り数人の男たちが侵入してきた。

 先頭に立つ男の手には鉄製のバールが握られている。

「おい! ひ、人がいるッ!」

「家に車がないならいねえって言ってた!」

「知らねえよ!」

 ひどく興奮した野太い声が交差する。

 朋子は硬直している。大股で男が近づく。その目鼻もわからない。朋子は緊縛されるかと思った。

 息を荒げた男は手に持っていたバールを振り上げ、

(こいつらは化け物なんかじゃない、ただの強盗だ!)

 朋子の頭を割った。

「もう一発殴れ!」

 殺される、もう抵抗しない、お金でも貴金属でも持って行って、だから殺さないで……

「まだ動いてるッ!」

「殴れ殴れ!」


 ……お願い


 悪意とは故意に発するものばかりとは限らない。知らず身に纏ってしまうこともあるものだ。


 二日後、民家でよっつの死体が発見される。

 ひとりはその家に暮らす原信雄、弘江夫妻の長女の原朋子、二十八歳。

 ほかの三名は市内のとび職の十九歳の少年、同じく市内の私立高校に通う十六歳の少年、隣の市の中学生十四歳。空き巣目的で原信雄さん宅に侵入した少年三人は、家にいた娘の朋子さんを鉄製のバールで撲殺した後、


 何者かに惨殺された。

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