焦げた朝に咎められて、閑な夜にひしがれても、僕を憶えていて

揺籠 有名

1章

1-1.


あの子と出会った日を覚えている。


事務所の入り口前で寝ていた白く太った猫を拾った数日後だと思う。汚かったので洗ったが、揺籠で哺乳瓶をしゃぶる白猫にはまだ名前をつけていない。

あの子が来た時、猫が哺乳瓶を抱え込んだ。

「にゃちきのミルクはあげやせんぜ」と言っているかのように。


扉から、とてつもない圧力を感じた。

何か来ると予感せずにはいられなかった。

敵襲か? 秘書と共に身構えているのに、なかなか入ってこない。なぜ入ってこないのか。


理由は明確だった。

待ち合わせ時間は10分後だ。 10分間、あの子の視線を感じていた。

野生の獰猛な獅子のような鋭い視線だ。

瞳は大きく、悪意なく舐めつけるように見ている。

時間になるとノックの音がした。


「どうぞ」と言うと、一人の軍人が入室した。


軍名簿に載っている通り、雪のような白髪をショートカットにした女の子だ。

瞳はルビーのように赤い。

若いのに、よく鍛えられていて、歩く時も止まる時も隙がない。ジョヴァンニが不意に足を掛けようとしたら、逆にジョヴァンニの足をへし折るだろう体幹の良さ。


ジョヴァンニのことを全く信用していないことが、目つきからよく分かる。

軍名簿によると、彼女はジュノという。

ジュノはピシッとジョヴァンニに一礼する。


「本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます。エメ外部顧問」


ジョヴァンニは軍部ではエメと呼ばれており、他大陸から第二大陸に派遣された外部顧問という立場だ。


「うん、楽にしていいよ」


ジュノは絵に描いたような勤勉な軍人だ。

実際、若手の中でも出世が早く、先日の新聞の一面にもジュノの顔が載っていた。

第二大陸の未来を背負うであろう人材だ。


「軍のボスには聞いたと思うけど、お嬢さんには僕の部下になってもらう」


「一切承知しております。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」


「よろしい。配属にあたってだが、この部署から情報を持ち出すのは禁止だ。その手の諜報活動を行った場合、お嬢さんを処分せねばならない。これも了承しておいてほしい」


「承知いたしました。一点、質問よろしいでしょうか?」


「どうぞ、質問の時は今後許可はいらない」


「ご配慮ありがとうございます。諜報禁止について魔法契約はしないのですか?」


魔法によって言動に制限をかけるべきでは?

第二大陸の軍人は口癖のようにこれを聞く。


「魔法契約ばかりの軍に所属して分かっただろ?いくら契約しても裏をかく者は現れる。そしてその者を処分するのは契約でなく、規定だ」


もちろんジュノの監視はする。

魔法を持ってしても、個人の言動を完全に縛る方法などない。


「お嬢さんも貴族の身分に生まれて、ひしひしと分かっているだろう。口頭で言ったことを逐一守れない輩に、何の信用がある?最後は各個人の気品だ」


真面目な話をしているのに、猫のやつがちゅぱちゅぱ音を立てて哺乳瓶をしゃぶっている。 咳払いをして、仕事の話に戻ろう。


「今日は引越しがある日でね。 午後は家に帰ってもいい。 勤務扱いにはしてあげるから」


ジュノは秘書と挨拶を終え、執務室に仕事道具を運ぶと、揺籠の猫と遊ぶ。

猫のやつも猫じゃらしを弾くのが楽しいらしい。 午前が終わったので解散し、ジョヴァンニは事務所に移しておいた家具を魔法で引越し先に転送した。


後はペットくらいなものだ。

猫と子狼と蛇と魚。その場その場で適当に飼っていたら、統一感のない4匹が現在のジョヴァンニのペットとなった。

水槽を乗せた乳母車の中に、子狼と蛇と猫を放り込んで運ぶ。引越し先は地元の大貴族が経営しているマンションで、一部屋が広く、軍関係者なら家賃も安いと聞いた。


乳母車の中で、猫がペットの子狼を抱き枕に、蛇をマフラーにしている。


「猫よ、そろそろ歩いても良いんじゃない?」


「にゃ」


やだと言われた気がする。

こいつは新参者のくせに太々しい。

管理人を務めている貴族は、ジョヴァンニの隣に住んでいるらしい。友人に持たされた菓子折りを持ってインターホンを鳴らすと、管理人は出てきた。


「隣に引っ越してきました、ジョヴァンニと言います。以後お見知り置きを」


お辞儀をして顔を上げると、管理人はついさっきまで会っていた顔。ジュノだった。


「エメじゃないの?」


「それはこっちや他の大陸で適当に名乗っている名前で、本名はジョヴァンニって言うんだよ」


「それってオフレコ?」


「各個人の気品がどうのって教えたでしょ?」


ジョヴァンニの腕にぬるりと蛇が絡みつくと、ジュノの表情が険しくなる。


「このマンション、ペットはダメなんだけど」


「お嬢さんにはこの子が蛇に見えるらしいね」


「違うの?」


実は彼女に見えているこの蛇、実はただの蛇ではないのだ。


「そういえば、第二では食べられてないけど、第一大陸では高級食品として売られているんだよ。このように細く長い魚なんだけど、捌いて炭で焼いてみるとふわっとした身が詰まってるんだ。蒲焼のタレを塗って米に乗せると絶品。その名をウナギ」


くわっとウナギこと蛇が大きな口を開く。


「いや、ひつまぶしの鰻でしょ? 第一大陸で食べたことあるし、何なら現物捌かれるの見たことあるし絶対鰻じゃないじゃん、蛇じゃん」


それに蛇だけじゃないじゃんと、ジュノは乳母車の中を探る。


「犬、蛇、魚、猫ってペットのオンパレードじゃん。 それともこの子たち全部ウナギ?」


「そう、ウナギだ」


くわっと動物たちが大口を開く。


「嘘つけ」


「上司に楯突くとはね。そんな部下はボーナス全部カット。明日には異動だ」


下手に出た上司には強気なジュノだが、流石に即異動は都合が悪いらしい。


何せ、今回のジュノの異動は、ジュノが志願して、ジュノの祖父のコネで捩じ込まれたものだ。


少しだけ責める舌が和らぐ。


「何でここに引っ越してきたのさ?」


「他のスタッフと一緒に職場近くに住める住居を探してね。この大陸に住んでる知り合いに聞いたらここを勧められた」


「……隣に住むってことは、休日に魔法医学とか、薬学とか教えてもらうことも出来る?」


ジュノはとんでもないことを言い出す。

業務時間外なのであえて突っ込まないが、ジョヴァンニはジュノの上司だったりするのだ。


「休日に教えたら休日じゃないだろ?」


「ペットには目を瞑るから……お願い」


ジュノは不慣れな上目遣いをするが、世の中そんなに甘くない。


「ペットに関してはお嬢さんのパパから許可貰ってるから、どの道、見逃してもらうよ」


ジュノパパがちょろまかした異動手数料を考えれば、ペット禁止のマンションにペットを住まわせることなど安い御用だった。

反論も要求も跳ね除けてさっさと入居の準備をすると、ジュノの手が伸びた。


ぐいっと引き寄せられようとするが、ジュノの方がバランスを崩してジョヴァンニの肩に倒れ込む形となった。


耳元でジュノが囁く。


「都合の良い関係になってあげる……ダメ?」


ジュノが悪い提案をするが、生憎とその手の誘惑はいくらでも受けてきた。


「ダメ。変な噂が立つからやめてくれないかな」


そういうことを言う女は他の奴にもそれに近いことを言っているのだ。 そしてそういう奴に限って、その男女の関係とやらを後の脅しのカードに昇華してくる。

辟易するジョヴァンニにジュノは首にかかった小瓶のネックレスを引き抜いて、小瓶の透明な液体を見せる。

液体の内容を知るジョヴァンニは大きく目を見開く。


「私は本気……どう?」


ジュノの眼は、安い誘惑をしてきた輩とは比べるほどもなく覚悟が決まっていた。


「分かったから後にしてくれる。今日は引っ越しもあるし」


一度ジュノを払い除けて新居に入ると、ジョヴァンニはふとこの大陸の歴史を思い出す。


今立っている第二大陸『ルーンヴァルハラ』。

大陸宗教の教典には、叡智を得る代償に片目を潰した男の伝説が記されている。

第二大陸では代価を持って施しを得ることを是とする考え方が文化として根付いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る