二、新たなる厄災 2

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 菊のただならぬ様子に、瀬織は肝を潰した。ほんの半日見ないうちに、これほど悪くなるとは思いもしなかった。

 黒い血を吐いたのは胃の腑がよくないものと思われたので、松塊まつほどを煎じて飲ませた。

 菊は苦悶の表情を浮かべ横になっている。細かく震えているのは痛みをこらえているのか、それとも泣いているのだろうか。

 松塊は気休めでしかないことは、うすうすわかっていた。菊が吐いた黒い血の量や苦しみ方が、とても瀬織の手に負えるものではないことはわかる。

 医者を呼ばなければならない。

 少し落ち着いた菊の枕元で、瀬織はささやいた。

「与右衛門さんと金五郎さんに知らせなきゃね。そしてお医者を呼んでもらいましょうね」

 菊はかすかにうなずいた。急いで行ってくるから一人でも大丈夫かと訊くと、菊は今度は大きくうなずいた。

 瀬織は家から走り出て与右衛門の家へ向かった。

 めったに慌てることのない瀬織が、息せき切って駆け込んできたのを、与右衛門と金五郎は驚きの目で迎えた。

 瀬織は菊の様子を控えめに伝えたが、ただならぬことが起きているのは二人にもわかったようだ。

 三人で瀬織の家に急いだ。菊は横になったまま、力なく与右衛門たちに目を向けた。

「おとっつぁん。おまえさん」

「菊」

 与右衛門が名を呼びながら枕元にぺたりと座った。金五郎もその向かいに座って菊の手を取る。

「お菊、どうしたんだ。いったい」

「ずっとだるそうにしていたんですが、今日になって急に血を吐いたんです」

 瀬織が代わりに答えた。

 菊は眉根を寄せて苦しそうに息をしている。

「金五郎さん、隣村のお医者を呼んできてください」

 瀬織が医者を呼んでくれというのは、よほどの重病だということだ。

 金五郎は木偶でくのようにうなずくと、外へと飛び出していった。

 金五郎の後ろ姿を見送った与右衛門は、視線を菊へと移し、「家に連れて帰りたいが……」とつぶやいた。

「ええ、今は動かさない方がいいでしょう」

 瀬織の言葉に与右衛門もうなずく。

 二人が見守る中、菊は目をつぶり眠ろうとしているかに見えた。父親と夫の顔を見て安心したのかもしれないし、医者を呼ぶという話を聞いたためかもしれない。

 与右衛門と瀬織も、ほっと一息ついて菊のそばを静かに離れようとした時だった。

 突然、菊は目をかっと見開いた。手足を痙攣させ、胸を持ち上げてのけぞる。

 与右衛門が菊の肩を両手で押さえた。

「菊、菊、どうした。しっかりしろ」

 菊の胸が大きく膨らみ、喉の奥からゴボゴボという音が聞こえたかと思うと、菊は大量の黒い血をはいた。菊に屈み込んでいた与右衛門の顔にも黒い血は飛び散った。

「ヒッ、ヒィィィッ」

 与右衛門は後ろに飛びすさり尻餅をついた。自分の顔に付いている血を拭い、その拭った手を見て、また「ヒィィィッ」と悲鳴を上げた。

 菊は全身を痙攣させていたが、次第に呼吸が穏やかになり落ち着いていく。瀬織は黒い血を拭き取ってやった。吐くものを吐いて楽になったようだ。

 与右衛門は菊から逃げようとするかのように、後ろへ後ろへと下がり、ほとんど土間に落ちかけていた。荒い息で白目を剥き、菊よりもはるかに重病人に見えた。

「与右衛門さん、どうしたのですか。お菊はもう寝ましたよ」

 助け起こそうとすると、与右衛門はまた悲鳴を上げて瀬織の手を振り払った。

「与右衛門さん、しっかりして。私ですよ。瀬織ですよ」

 肩を揺すぶられて、ようやく与右衛門は正気に戻ったようだった。

 与右衛門を抱えるようにして囲炉裏端に座らせた。

 白湯を持って来て飲ませると、与右衛門はようやく人心地がついたようである。

「いったいどうしたのですか。こんな……」

 瀬織の頭に昔の与右衛門がよみがえった。まだ幼かった頃、与右衛門はこんなふうにいつも脅えていて女を何人も殺したのだ。

「わからない。なぜかわからないが……。いや、違う」

 与右衛門は大きく頭を振ってうずくまった。そしてくぐもった声で言う。

「菊の黒い血を見た途端、俺は……。俺は……」

 与右衛門は長い間口をつぐんでいた。瀬織は辛抱強く待った。

「あの頃の俺を思い出したんだ」

「あの頃?」

「サチを嫁にした頃だよ」

 サチは、累が死んですぐに与右衛門の家に女中としてやって来て、後妻となった女だ。

「俺はサチを心底可愛いと思っていた。だけどサチは日に日に累に似てくるんだ。そして最後に黒い血を吐いて死んだ。今思えば、あの頃のことはまるで夢の中のことのようだ。俺は累の顔を見るのも嫌だった。殺したことを後悔したことなんかなかった。と、そう思っていた」

 与右衛門は白湯を飲んで大きく息を吐いた。

「だけど違ったのかもしれない。累は怨霊になって俺に取り憑いていたんだ。次々と女を嫁にして殺したのは累が俺にそうさせていたんだ」

 肩を震わせ、すすり泣くように息をしている。

「俺は怖かった。累の言う通りにしなきゃ俺は殺されると思った」

「累さんがそうしろと言ったのですか。お菊が取り憑かれたみたいに」

「いや、菊みたいには、はっきりとは……。あの頃は累に取り憑かれているなんて思いもしなかったからな。だけど、きっとそうだったんだ。知らないうちに累の思い通りに動かされていたんだよ」

 自分は悪くないと言わんばかりに、与右衛門は縋るような目を瀬織に向けた。そして、「思い出した。思い出したんだ」と口の中でつぶやいている。

 累の怨霊のせいだと言う与右衛門を、瀬織は扱いかねていた。菊も怨霊に取り憑かれたのだから、という論理なのだろう。だが菊は芝居だったのだ。

「俺は操られていたんだ。だからあんな恐ろしいことを、だけど伽羅が嫁に来てくれて、俺は救われた。あのままだったら……。伽羅がいてくれなかったらどんなことになっていたかと思うと恐ろしい」

 その言葉に嘘はないのだろう。与右衛門はしんから脅えたように身震いした。

 与右衛門の悪行を止めようと、人柱になったと思われる伽羅だ。与右衛門が伽羅に救われたと考えることになんの疑問もないはずだ。だが、瀬織にはなにかが違うと考えざるを得なかった。

『なぜだろう。どうして私はそう思うのだろう』 

「だけど菊はどうしてあんな黒い血を」

 与右衛門の言葉に瀬織は物思いから呼び戻された。

「胃の腑が悪いのだと思いますよ。そういうことを言っていませんでしたか?」

「いいや。菊は丈夫なたちで、めったに風邪もひかなかった」

 与右衛門の顔色は優れない。サチと同じように黒い血を吐いた菊。脅えが心を去らないのか、どこか落ち着きがなく指の先が細かく震えていた。

 金五郎はなかなか帰って来なかった。隣村の医者が不在だったのか、などと与右衛門と話しながら、金五郎の帰りを今か今かと待っていた。

 夜も更けて、家に帰りたそうにしている与右衛門を菊の隣に寝かせ、瀬織は囲炉裏の火をおこし薬を煎じていた。

 どれほどたっただろう。菊の苦しそうなうめき声が聞こえていた。菊は玉のような汗をかき、頬を火照らせていた。横で寝ている与右衛門を起こし、桶に水を入れてくるように頼んだ。

 布を水に浸し菊の額や胸を拭いてやる。菊は少しだけ目を開けて、瀬織にうなずくような仕草をした。

「お菊、苦しいのかい?」

 菊は目蓋でうなずいた。

「どこが苦しいんだ。え? 菊」

 与右衛門が横から顔を出して訊くと、菊の表情が一変した。それは父親を見る目ではなかった。蛇蝎を見るがごとくに憎悪をたぎらせていた。与右衛門は須臾の間たじろいだが、すぐに気を取り直した。

「どうした、菊。おとっつぁんがわからないのか」

「あ、おとっつぁん」

 菊は両の目から涙をぽろぽろとこぼしながら、与右衛門にすがりついた。

「もうすぐ金五郎が医者を連れてくるから、それまで辛抱するんだぞ」

 与右衛門は菊の背中を撫でて、あれやこれや言って菊を励ましていた。

 気休めとわかっている薬湯を飲ませ、横になるように言うと菊は素直にそれに従った。与右衛門と瀬織はほっとして顔を見合わせた。それでも、こんなことが朝まで続くのだろうかという疲労が二人の顔に滲んでいた。金五郎と医者を待ちわびる気持ちは、ほとんど諦めに近いものになっていた。

 菊が静かな寝息を立て始めると、瀬織もようやくまどろんだ。

 どのくらい眠ったのだろうか。瀬織にはほんのわずかのように感じた。菊のうめき声で目が覚めた。うめき声は次第に大きくなり、意味をなす言葉に変わっていった。

「……許さぬ……よくも俺を……」

 菊の声ではなかった。与右衛門が言っているのかと見れば、目を覚ました与右衛門が菊と瀬織とを脅えた目で交互に見ていた。

 声は間違いなく菊の口からもれていた。男の声には違いないが、老人のようでもあり子どものようでもあった。不気味な声で恨み言を言っているようだが、だれに対するものなのかよくわからない。

「よくも俺をこんなところに……この恨みは……必ず」

 聞く者の心胆を寒からしめる声の響きに、瀬織は鳥肌が立つのを感じた。与右衛門はと言えば両耳を押さえ、目をつぶって震えていた。

『これは芝居なの?』

 菊の口から発している言葉だが、菊のものではない。芝居をしているようにはとても見えなかった。

「お菊、しっかりして。だれがしゃべっているの? お菊、そこにいるんでしょう?」

 瀬織は菊の肩を摑み揺すぶった。しかし菊の目の焦点は合わず、まだ異様なうなり声を発していた。

「お菊」

 瀬織は平手で菊の頬を打った。パンという高い音が家の中に響き渡る。すると菊は夢から覚めた人のように目をみはってあたりを見回した。

「どうしたのです、お菊。なにがあったの?」

「え? なにが?」

「お菊は今、だれかに恨みを抱いているようなことを言っていたのよ」

 菊には覚えがないようだった。嘘をついているようにも見えない。

「また累の怨霊が取り憑いたのか?」

 なにも知らない与右衛門がそう思うのも当然だ。

「朝になったら、また祐天様にお願いしよう」

 なにかとんでもないことが起こっている気がしてしようがなかった。朝まで待っていてはならない。瀬織は弘経寺に寄宿している松雲に相談することにした。博識な松雲ならどうすべきかわかるかもしれない。なによりも菊が芝居をしていたことを知っているのだから、今夜の菊の状態との違いをわかってくれるだろう。

「与右衛門さん。私はこれから弘経寺に行ってきます」

「え? あ、ああそうだな。すぐのほうがいいかもしれない」

 与右衛門の言葉を背中に聞いて、瀬織は夜の闇の中に飛び出した。

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