一、与右衛門と伽羅 7

               7 

 九月も半ばを過ぎたある日、伽羅は突然血を吐いて倒れた。

 以前から少しずつ太り始めていた伽羅だったが、人目につかないところで木に寄り掛かり休んでいるのを見た私は目を疑った。伽羅がこんな姿でいるところをかつて見たことはなかった。

 たまに息を切らしていることもあったが、「太ったから体が重いのね」などと笑っていたのだ。私はその言葉を疑いもせずに、与右衛門と幸せに暮らしているから太ったのだと思っていた。

 私はそっと近づいていった。伽羅の肩がゆっくりと上下している。こちらに背を向けているが、苦しそうなのはわかる。

「伽羅」と遠慮がちに声を掛けた。

 伽羅がびくりとして振り返る。顔は蒼白だった。

「伽羅、どこか悪いの?」

「いいえ、ちょっとめまいがしただけ。なんでもないわ」

 いつものように背筋をのばし、また仕事へ戻っていった。

 伽羅は太ったのではなく浮腫むくんでいるのだ、とその時初めてわかった。なぜ気づいてやれなかったのだろう、という後悔がわいてくる。

 私はすぐに鬼怒川の川岸にある小屋に戻って、浮腫みをとる薬草を煎じた。伽羅は素直にそれを飲んだが、死期を悟っていたのかもしれない。死んだあとのことを、いろいろと考えていたようだ。寝間に籠もる日が多くなった。しばしば菊を呼んで、長いあいだ話し込んでいるという。

 いよいよ起き上がれなくなったのは、その年、初めての木枯らしが吹いた日だった。

 与右衛門と菊は悲しみうろたえて、私にさまざまな薬草を調合させた。よいと言われる食べ物を探し回ったり、遠い村から名医と呼ばれる医者を連れてきたりもした。

 だがその甲斐もなく伽羅は次第に衰弱していった。

「おまえさん」

 苦しげな声で伽羅は与右衛門を枕元に呼んだ。

「しっかりしろ、伽羅。おまえがいなくなったら俺はどうすればいいんだ。おまえがいてくれたから、俺は真人間に戻れたんだ。そうでなければ今頃は地獄に落ちていただろうよ。いや、あの時すでに俺は地獄にいたんだ。そこから助けてくれたのはおまえだ。俺に幸せをくれた。菊という可愛い娘も授けてくれた。これからじゃないか。一緒に年をとって腰が曲がるまで俺のそばにいてくれ」

 伽羅の手を取って泣きながら訴える与右衛門の姿に、だれもが涙を流さずにいられなかった。奉公人もいつの間にか全員が、部屋の外に集まってきて嗚咽を漏らし涙を拭っていた。

 私は少し離れたところからこの愁嘆場を見ていた。与右衛門の言葉は心からのもので偽りのないことは知っている。これから伽羅は最期の願いとして驚くべき事を言う。

 なぜそれを自分が知っているのか、私は自分自身に恐怖を覚えて震えた。

 会ったこともない累や助やスギの顔がはっきりと見え、頭の中で逆巻く水に翻弄され流されていく。与右衛門と菊が流れる水に浮き沈みしながら、遠く過ぎ去っていった。どの顔も苦しみに歪んでいる。助けを求めるように手を伸ばすが、あっという間に水に呑まれていくのだった。

 川岸にミヲが立っていて、そこが鬼怒川だということがわかる。だがいつもの鬼怒川とはまるで違っていて、怒り狂う龍のように波瀾はらんする暴れ川だった。

 伽羅の姿も見える。ミヲに寄り添うように立ち、川を眺めている。二人はわかり合っていて、信頼の眼差しを交わしている。

 伽羅が川へ向かって足を踏み出した。なにをしようとしているのか、私はわかっているのかもしれない。だが、その先を見ることを私は拒んだ。伽羅は病で死ぬのだ。私はひたすら自分にそう言い聞かせていた。

 自分の中に何かが生まれかけている。それを阻んでいるのは私自身だ。

 死にかけている伽羅に、自分も最期の言葉をかけてやりたいと思うが小指すら動かせず、その場でひそやかに息をしているだけだった。

 伽羅は目を閉じたまま静かに息をしていた。死んでしまったのか、と皆が息を詰めて見守る中、伽羅はゆっくりと目を開けて、与右衛門を呼んだ。

「おまえさんに聞いてほしいことがあるの」

「うん、なんだ。なんでも言ってくれ」

「菊のことよ」

 菊がはっとして伽羅の枕元ににじり寄った。菊は伽羅によく似て背が高く、憂いのある優しげな顔をしていた。来年は十五になるが、その年齢よりも遥かに大人に見えた。

「私が生きているうちに、菊に婿をとってほしいの」

 意外な言葉に、そこにいる全員が目を丸くした。菊も「ええっ」と声を上げそうになって慌てて口を押さえていた。

「おっかさん、どうしてそんなことを急に……」

「私が死んだあと、一番心配なのはお菊、おまえのことだよ。おまえのことをちゃんと支えてくれる頼りになる人と一緒になってほしいの。おとっつぁんもおまえを助けてくれるだろうけど、私はね、二番目に心配なのはおとっつぁんなんだよ。すっかり改心したとはいっても、私がいなければ、またどんなふうになるかわからない」

 伽羅は与右衛門に目を向けた。子どもを見守る母親のような目だった。

「伽羅、俺はもう大丈夫だ。本当だ。約束する」

 うんうんと力なく伽羅はうなずいた。

 十四や十五で嫁に行く娘は珍しくない。だが、今この話をするのは、やはり与右衛門を完全には信じていないということだろう。

「私が菊の婿にふさわしいかどうか見極めますから、できるだけ早く婿を探してください」

 与右衛門が、がくがくとうなずいた。こんな状況でなければ怒りだしたかもしれない言いようだ。伽羅はこの機を狙っていたのかもしれない。

「今すぐ、婿を探しに行ってください。まずは名主さんにお願いするのがいいでしょう。菊も一緒に行って、よい婿を世話してくれるよう頼むのです」

 二人が行ってしまうと、伽羅は私に話があると言って寝間の戸をぴったりと閉めさせた。

「おっかさんが言ってましたよね。この家には悪いものがあって災いしているって」

 たしかにそう言っていた。それが何なのかわからなくて悔しいと。

「お婆も最後までわからなかったって。伽羅はわかったの?」

 伽羅は弱く首を振った。

「私にもわからなかった。ただ、おっかさんは言っていたの。この家に娘が生まれて、その悪いものから私たちを遠ざけてくれるって」

「お婆はお菊が生まれることを知っていたの?」

「ええ、私が与右衛門と夫婦になることもずっと前から」

 私は驚いてしばらく口がきけなかった。

「だ、だけど……」

 ようやく出た言葉がそれだったが、混乱してうまく言葉がでない。

「だけど、伽羅が与右衛門さんと夫婦になるって言った時、お婆はすごく驚いていたし、なんとかしてやめさせようとしていたじゃない」

「自分の視えたものが違っていてほしい、と思っていたのじゃないかしら。そしてなんとか私の運命を変えられないかと必死だったのだわ」

 伽羅は悲しそうに微笑んだ。

「私もあの人を助けられると思っていた。それは驕りだったのね」

「でも伽羅は助けたじゃないの」

「いいえ。あの人はまた道を踏み外すでしょう。でもきっと菊がそれを止めてくれる。だから菊を助けてくれる人が一人でも多くそばにいてほしいの」

 伽羅は手を伸ばして私の手を探した。私はその手を握りしめた。指の先までも浮腫んだ白い、冷たく汗ばんだ手だった。

「菊をお願い」

「わかった。わかったわ、伽羅」

 伽羅の手をしっかりと握りしめた。伽羅は疲れたのか、まるで事切れた人のように眠りに落ちた。

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