二、累の死 1
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はじめは妬まれているのだと思った。累と祝言を挙げるまでは、村の連中は谷五郎に好意的だった。「谷五郎さん、次はうちの畑を手伝ってくれ。腰を痛めちまったんで」そんなふうに気軽に声を掛けてきた。その家の女房は谷五郎に飯を運んできた時に色目を使う。どこの家もそんな感じだった。
ところが祝言の日を境に村の連中の目つきが変わった。まるで
累の家は田畑を多く持ち、小作人も大勢いる。それに金貸しもやっているようだ。それらのものがすべて谷五郎のものになる。財産目当てに入り婿した谷五郎への
『それでも構うものか。金さえあれば』
しかし谷五郎は、実は気の小さい男だった。道で行き会っても挨拶を返してくれるどころか、刺すような冷たい視線を投げてよこす。
さらに谷五郎を打ちのめしたのは名主の豹変だった。他の村人と同じく谷五郎には親しげに声を掛けてくれていたのに、今は憎悪と言っても過言でないほど感情をむき出しにしてくるのだった。
当然のことながら谷五郎には、心を開いて相談する相手もいない。さりげなく奉公人に訊ねてみても、当たり障りのないことしか言わない。
谷五郎は次第に追い詰められていった。鬱々とした気持ちは晴れることがなく、酒を飲むくらいしか気晴らしの方法がわからない。贅沢三昧をして美しい女を囲う夢は儚く消えた。この村にいる限り心が晴れる日は来ないように思われる。
「おまえさん、お酒はそのへんでやめといたらどうだね。酒みたいな贅沢品を毎日飲むなんて、おとっつぁんはそんなことしなかったよ」
累の物言いも谷五郎を小馬鹿にしているように聞こえる。
「酒くらいでとやかく言うな」
「だって……」
「あっちへ行ってろ。おまえの顔を見ると酒がまずくなる」
こんな女を女房にするんじゃなかった。俺ならもっとましな女と所帯が持てたはずだ。
累の顔を見るとどうしょうもなくむかっ腹が立ってくる。そして酒に溺れた。
累さえいなければ。
その考えに至るのに、それほど
ある日、谷五郎と累は畑に豆刈りに出かけた。畑は鬼怒川の下流にあった。
その日も朝から酒を飲んでいた谷五郎は、とても畑仕事などできる状態ではなかったが、累にせっつかれ渋々出かけたのだった。
醜い上に近頃では女房気取りどころか、谷五郎を役立たずの婿と見做して軽く扱うようになっていた。
それでも我慢していたのは、累を殺す機会をずっとうかがっていたからだ。
この女さえいなければ。
谷五郎はその一念で日々を過ごしていた。
そしてようやくその機会がやって来た。
豆刈りを終えた二人は大きな荷を背に担ぎ、家に戻るところだった。
空には秋の雲が浮かんでいる。
『あれは鰯雲というんだったっけ』
これからやろうとしていることとはほど遠い、いやにのんびりした気持ちだった。
鰯雲がだんだんと朱に染まっていくさまは、谷五郎の血で空を染めているような錯覚に陥った。沸き立ってくるような全能感に包まれ、累を殺すことを正当化した。
途中、法蔵寺の裏を通る。そこは鬼怒川が淵となっているところで、昼でもどんよりと暗く人目につかない場所だった。
「おまえさん、あたしの荷はおまえさんの倍はあるよ。重くてしょうがない。鬼怒川に着いたから交換しておくれ」
谷五郎は、酒が抜けなくて重い荷は背負えないと理由をつけ、累にたくさんの豆を背負わせたのだった。道々、文句を言い通しだったが、鬼怒川で交代しようと、なだめなだめここまでやって来たのだった。
「それじゃあ、待ってろ。おまえの荷を下ろしてやるから」
と谷五郎は、まず自分の荷を下ろした。そして腰に差した鎌を引き抜くと、累に向かって切りつけた。いち早く気配を察した累が身を
「なにすんだよ、おまえさん」
半顔を血に染めて金切り声を上げ、振り返った累の形相に谷五郎は
もともと醜い累の顔が怒りのために歪み、いつか見た地獄絵図の鬼のようだった。
谷五郎は直視できなかった。震える膝をやっとのことで立て、累に摑みかかる。大きな荷を背負っている累は、簡単に川に落ちてしまった。
累から流れ出た血が川を染める。そこへ谷五郎も飛び込んで累の胸を踏みつけた。束ねていた豆の小枝が解けてばらばらと流れていく。累の体に馬乗りになって片手で首を絞め、もう片方の手で川底の砂利を口に詰め込んだ。
ぐったりした累は死んだものと思われたが、谷五郎は累の首から手を離すことができなかった。まるで自分の手ではないように思うようにならず、肩で息をしたまま動けずにいた。
どのくらいその格好でいたのかわからないが、豆の小枝も累の血もすっかり流れ去り、谷五郎はようやく我に返った。
累の死体をこのまま淵に落として流してしまおうか、とも思ったが、自分が疑われないように川から引き上げ、とりあえずすぐそこの法蔵寺へ駆け込んだ。
「累が川に落ちまして、すぐに助けたのですが、どうも息をしていないようなんです」
和尚は小坊主と一緒に川へ急いだ。
川べりに寝かされている累の上へかがみ込んで、なにやら確かめたあと、「亡くなっておりますな。お気の毒に」と言った。だが遺体の様子に不審な点があるようで、含みのある言い方だった。
「今日は俺の体の調子がよくないんで、累は俺の分も刈り豆を背負ってくれたんです。そのせいで川に落ちてしまって。優しい女です。こんなことになるなんて……」
谷五郎は出ない涙を隠すために、袖で顔を覆った。女房を突然亡くし、呆然としている夫を演じていたので、周りの者が村役人への届け出や葬儀の段取りをすべてやってくれた。
村人は累の死を悼むでもなく、淡々とやるべき事をこなしていく。
その様子が谷五郎には異様なものに思えた。みんながなにかを隠している。谷五郎が殺したことを知っていて、気付かないふりをしているようにも見えた。累の片耳が削げているのに、だれも谷五郎を疑わないのはおかしい。
谷五郎をあえて無視するような人々に震えるほど脅えた。
『累がみんなに嫌われているからだ。和尚も村の連中も累が嫌いだから、どんなふうに死のうがどうでもいいんだ。この世にいなくなったってだけで内心喜んでいるのさ』
あとになって、それもあながち間違いではなかったのだが、谷五郎はそうやって自分を納得させた。
そのうちに谷五郎の耳に、「累だ」「やっぱり」という声が聞こえてくる。なんのことかと家の女中に訊いた。この女は五十とも六十とも見える、背が曲がり痩せて年寄りくさい女だ。仕事はそれほどできるわけではないが、普段から口数が少なく余計なことは言わないので、谷五郎は気に入っていた。
女中は皺の寄った顔を上げて、言いにくそうに口を歪めて答えた。
「おかみさんの死んだ兄さんが、同じところで死んだんですよ」
「へええ、累みたいに足を滑らせて溺れたのかい?」
「いいえ、殺されたって話ですよ。私がこちらに来る前のことなので、聞いた話ですが」
谷五郎はぞっとした。話を打ち切りたかった。だが普通なら、だれにどんなふうに殺されたのか訊くだろう。それを訊かなければ、自分が累を殺したことを疑われはしないかと気を回して嫌々問う。
「どうして殺されたんだい?」
「先代の与右衛門さまに殺されたと聞きましたよ。助という男の子なんですが、奥さんの連れ子だったんで、ひどく嫌っていたんだそうです」
「そりゃあまた可哀想に」
「ええ、可哀想ですよ。なんでも法蔵寺裏の淵で、実際に手を掛けたのは母親だったんですが、先代の与右衛門さまが男の子を殺すように仕向けたらしいですよ」
女中は話し出すと止まらないのか、聞きもしないことを次々と喋った。
「男の子が死んだ翌年に生まれたのが、奥さまの
谷五郎は耳を塞ぎたかった。なんなら女中を鬼怒川に沈めて川底の砂利を、その余計なことを言う口に詰め込んで、二度と喋れないようにしてやりたい。
しかし女中は喋り続ける。
「それが旦那さま、奥さまが亡くなったのが男の子と同じ場所ですからね」
「同じ場所だと?」
谷五郎の背中にぞっと怖気が走った。鼻と口とに川砂を詰め込まれた、累の醜い顔がよみがえる。
「そうなんですよ。それでみんなが噂しているんです。『やっぱり
村人がなぜ谷五郎を蔑むのかがようやくわかった。財産目当てで累のような女と一緒になった愚かな谷五郎を嘲っていたのだ。
女中はその日のうちに辞めさせた。どこにも行くところがないなどと泣き喚いたが、蹴り出すようにして追い出した。
女中を放り出すと安堵の息をついた。人の噂なんぞ聞こえてこなければないも等しい。累がだれの生まれ変わりだろうと、知ったことではなかった。累を殺したことがバレなければそれでいいのだ。
『俺には金がある。これからは思うがままだ』
唇に冷たい微笑みが浮かんだ。一人になると自然に笑みがこぼれてしまうが、村人の前では悲しみに暮れる夫をうまく演じていた谷五郎だった。
そうやって四十九日が過ぎた。
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