真実
優しいお母さんたちに引き取られてからも、夕餉の匂いがしてくる頃になると、時折、寂しさがこみ上げた。
里と手を繋いで歩いた買い物帰りの道。
台所に立っていた里。
いろいろ思い出されて、泣けてきた。
あまり家に居なかった父親のことは、薄情にも、ほとんど思い出さなかったけど。
だから、わかったのだ。
里がずっと自分大事にしてくれていたこと。
里はいつも、カラッとしていて、自分本位で。
だから、離れてみて、初めて、里が自分に注いでくれていた愛情がわかったというか。
だが、それでも、愛人と出て行った里について行きたくはなかった。
それに此処には、和歩が居る。
「瑠可、これ、読みなよ」
そう言って、膝を抱えていた私に本を差し出してくれた和歩。
そうか。
あのときからか、と思う。
和歩が私に本を貸してくれるようになったのは。
あのときからずっと、続いてたんだ――。
「はい。
壁に引っつくようにー。
最初は両足をひっかけてー。
両手で、①のホールドを持ってー。
そう。
出来るだけ、がに股にー」
トレーナーの次々繰り出す注文……というか、忠告に、綾子は黙々と従っていた。
いちいち、ぎゃあぎゃあ言う自分や眞紘とは違う、意思の強さを感じた。
綾子は慎重に、だが、一発で、上まで上がった。
「さ、おつぎは瑠可さんね」
と綾子が微笑む。
三人で訪れたボルダリング。
するするとこなす綾子に、瑠可はあっという間に追い越された。
「今日もう、そこまででいいんじゃない?」
瑠可の恐がりと実力の程を知るトレーナーがそんなことを言い出す。
「いいえ、行きますっ」
せめて、綾子さんが進んだところまで!
そんな自分を休憩中の綾子が見ていた。
話したいことがあるけど、話せない。
眞紘が来る前、そう彼女は言っていた。
「話すなと和歩さんが言うから」
その言葉を噛み締めながら、瑠可は慎重に足をホールドに乗せながら上る。
たいした高さではないが、支えの不安定さから、下を見ると、くらりと来た。
いや、上りはまだいいのだ。
問題は下りだ。
やはり、下を見て下りるのは怖い。
その恐怖心から、上りさえも怖くなる。
つい、下りるときのことを考えてしまうから。
いやいや、考えない。
今日は考えない。
この後のことは考えない。
今は、頂点目指すのみっ!
なんとかなると、下りるときのことを考えないようにすると、恐怖心は消えた。
最後のホールドに両手をかける。
「やった!」
「上がったっ!」
トレーナーの人まで喜んでくれたので、周りの人もどんな運動音痴が頑張ったのかと、たいして難しいコースでもないのに、拍手してくれた。
つい、泣きそうになる。
冷静な人が居たら、いやいや、あんた、感激するようなコースじゃないから、と突っ込まれそうだが。
やり遂げたこともだが。
みんなが喜んでくれたことが嬉しかった。
さあ、此処から慎重に、と降りようとした瞬間、
「あっ」
と何人かが声を上げた。
トレーナーや上手い人には、その怪しい足のかけ方で、もう踏ん張れないことがわかったのだろう。
落ちるより遥かに早く、叫び声が上がっていた。
瑠可は豪快に足を踏み外し、クッションに叩きつけられた。
仰向けになったまま、呆然とライトのついた天井を見ていた瑠可だったが。
やがて、笑い出す。
「だ、大丈夫?」
落ちたことより、その笑い方に不安を抱いたように、インストラクターや眞紘たちが訊いてきた。
「大丈夫でーす」
と返し、いてて、と打ちつけた腰を抑えて、立ち上がる。
やり遂げたら、飲もうと思っていた夢の自動販売機にヨロヨロと向かった。
サイダーを飲み、一息ついたところに綾子がやってきた。
「大丈夫ですか?」
「ええ。
もうなんかすっきり。
いろいろと吹っ切れました」
と言うと、
「待って。
吹っ切らないでっ」
と綾子は言う。
「違うんですっ
私は、和歩さんとは結婚しませんっ」
綾子はそう言い、詫びてきた。
「私、結婚を反対されてる相手が、海外に居て。
パスポートを親に取り上げられているんです。
なんとしても、取り返したくて。
友だちと旅行とか言う程度じゃ、駄目そうだったから。
諦めて、見合いして結婚するって言ったら、日本から出られるかなって。
それで、お見合いした和歩さんにお願いしたんです。
到底、聞いてもらえるようなお願いではないと思ったんですが。
私が追い詰められているのがわかったのか、和歩さんは、自分はそんなことをしても特に問題ないからと言って、協力してくれたんですけど。
あとで、貴女のような方が居るのを知りました」
「私はただの妹ですよ」
「いえ。
そうではないのは、一目見てわかりました。
すぐにこの話はなかったことにしてもらおうと思ったんですが。
和歩さんが絶対言うなって。
何処から、もれるかわからないから。
それに、どうせ、あと二ヶ月のことだからって」
あのとき、和歩が結婚することを寂しがる自分に、二ヶ月待て、と和歩は言った。
でもそうか。
だから、和歩はパスポートを取ろうとしていなかったのだ。
自分は本当は海外には行かないから。
「ごめんなさい、瑠可さん」
と謝る綾子に、
「すみません。
知ってました」
と言う。
「え」
「この間、和歩に聞いたんです。
貴女の秘密を話す訳にはいかないからって。
本当に結婚するわけではないってことだけ話してくれました」
じゃあ、とほっとした顔をした綾子に言う。
「でも私、他の人と結婚します」
「えっ」
「とりあえず、結婚してみることにしました。
なにもかも、やってみなくちゃわからないじゃないですか。
今まで、やけになって、結婚話進めようとしてたけど。
それに付き合ってくれてた人を、なんだかもう……裏切れなくて」
あれ以上、強引に押して来なかったときの一真の顔を見て、初めて彼を可愛いと思えた。
「だから、もういいんです」
と言うと、綾子は困ったような顔をする。
「またいつか会いたいですね。
十年後とか、三十年後とか。
みんな、どんな風になってて、誰と結婚してるのか。
一回結婚したって、それで終わりかわからないですし」
「……そうですね」
と綾子は苦笑する。
「意外と私と和歩さんが本当に結婚してたりして」
「うっ。
それを言いますか」
と言うと、綾子は笑い、
「なになに、なんの話ー」
と眞紘がいつものように陽気に首を突っ込んできた。
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