第20話 出会い取り消ししてもいいですか?帰りたい。
シダスの言葉は、まるで静かな湖に投げ込まれた石のようだった。
「……どういう意味だ?詳しく説明してもらおうか。」
魔術暴走──あの一件と、その威力を思い出しながら、彼は無言のまま手をテーブルの下へと滑らせる。
シダスの反応を観察しつつ、指先に魔力を集中させる。
かすかに浮かぶ魔術符文が、暖色の灯りに照らされ、淡く揺らめく。その光は小さくとも、ひとたび発動すれば確実に制圧できるだけの力を秘めていた。
──必要ならば、この場で即刻逮捕する。
そんな
威圧的な視線、低く沈んだ声色。普通の人間ならば、すでに冷や汗を流しているだろう。
しかし、シダスは相変わらずのんびりと、窓の外を眺めていた。
まるで今しがた発した言葉が、「今日は天気がいいね」と同じくらいどうでもいいことのように。
「シダスさん。場合によっては、副所長として、あなたに
「質問。これは脅迫ですか?」
「違う。これは正当な──」
「再度質問。私を事情聴取に呼ぶ理由は?」
彼の表情には、まるで「どうせ答えないだろう」と言わんばかりの余裕が漂っている。
そして、シダスは続けた。
「ほら、典型的な不公開主義。言葉の『ある部分』だけを抜き出して、『副所長』という肩書を使い、私を『任意同行』させようとする。協力をお願いすると言いつつ、当事者である私は何が起こったのかすら知らされていない。」
淡々とした口調。だが、その刃は鋭かった。
「もしこれが脅迫でないのなら、公権力の濫用としか言いようがない。」
シダスの語りは、緩急のない穏やかなものだった。
だが、その一言一言が鋭く研がれた刃のように空気を切り裂いていく。
彼の挑発的な態度が、すでに重苦しい空気をさらに張り詰めたものへと変えていく。
──そして、そんな空気の中で。
当事者ではないのに、無理矢理にここに居座らされているミルは、ただ古びたテーブルを見つめることしかできなかった。
考えることが多すぎて、頭の中がフル回転している。
──私ここにいる意味、本当にあるのか?
そもそも、なぜ、突然こんな空気になっているのだろうか?
先ほどまでは普通に会話していたはずなのに…
どうしてこうなった!?ゾンビ映画の突然変異体かよ!?
ミルは、自分がシダスをここへ連れてきた時のことを思い返す。
考えれば考えるほど、自分の行動が狂っていたようにしか思えなかった。
──傷を治すために花ばあちゃんの店に誘った?
たかが舐めておけば治る程度の傷のために?
結果、自分で自分の首を絞めることになった……いや、そもそも猫の鳴く声なんて気にしなければよかったんじゃないか?
どうせ飼えないんだから、最初からスルーすればよかったのに……
もしあの時、真っ直ぐ家に帰っていれば、今頃はねむじゃんと一緒にのんびりしてた。
ねむじゃん大丈夫かな?
いや、最近の様子からしてまだ寝ているに違いない。
いや、違う違う違う!!
今そんなことを考えてる場合じゃないだろ。
考えるべきはここからどうやって抜け出すかだ。
副所長のフォローでもするか?いや、そこまで親しくないしな……
それに、シダスの言い分にも一理ある……どうする!?
逃げるか?
いや、無理だ。この状況、この空気の中で?さすがに無理すぎる。
てか、立ち上がるどころか口を開くのすら躊躇われる。
……結局、頼れるのは昔から培ってきた唯一のスキルしかない。
この数秒間の思考の暴走にかかった時間、たったの5秒未満。
だが、ミルが昔から身につけてきた唯一のスキルと言っても、所詮は気配を消して静かにやり過ごすことくらいである。
目立たず、音を立てず、空間の隅でできるだけ存在感を薄める。
そうして状況を観察し、最適なタイミングを見極める。
──それしかできない。
ミルの焦りとは対照的に、当事者である二人はむしろ余裕すら漂わせていた。
シダスに至っては、全く気にしていない様子、悠然と花茶を啜っている。
時々、ストローで氷をくるくると回しながらの仕草している。
一方の
そして、そんな彼もまたシダスの影響を受けたのか、次に発した言葉は意外なものだった。
「シダスさん、あなたは官僚機関と長く付き合いがあるのでしょう?」
本来ならば疑問文であるはずの言葉。
だが、彼の語調はまるで確定事項を述べているかのようだった。
その問いかけに対し、シダスはただ花茶を一口飲むだけ。
返事する気配すらない。
「お前は明らかに、機関や組織の仕組みに異常に精通している。
「それは単に、そういう番組をよく観るからかもしれないし、たまたま周囲にその業界の人間がいるだけかもしれませんよ?」
「確かに、それもあり得る。だが、お前の語調には官僚機構への皮肉や反発が滲んでいる。それが単に身の回りの影響とは思えないな。」
「……お前が言う『関わり』とは、組織との摩擦を生じるような職業を指すのではないか?例えば──犯罪者とか。」
──こいつが話す時の表情。それは単なる官僚組織への不満ではない。
あえて、こちらの反応を観察するように演じているものだ。
その言葉の一つ一つが計算され尽くし。
話すべきタイミングで、話すべきことを、話すべき相手に対して伝えている。
単に「周囲に関係者がいる」だけでは、ここまでの知識を得ることはできない。
――お前の目的をわからないだが、このまま好き勝手にさせるものか。
シダスは、
だが、「犯罪者」という単語が出た瞬間――
くすっ。
低く、静かな笑い声が漏れた。
その笑いはまるで微風がそっと揺れるような軽やかさだった。
しかし、それだけで場の緊張感を緩む。
──え?その場にいた二人は、一瞬何が起こったのか分からなくなった。
特に
分析を重ねれば重ねるほど、彼はこの笑いの意味を理解出来なかった。
挑発ではない。
単純な愉悦でもない。
むしろ、この見えない盤上のやりとりに対する純粋な評価のように感じた。
ミルもまた、困惑の色を隠せなかった。
ずっと第三者視点で対話を観察していたというのに、それでもシダスの反応の意図が読めない。
この会話の中に何か問題があったのか?それとも自分は何かを見落としているのか?
ミルがそう考える間に、シダスがゆっくりと顔を上げる。
彼の赤い瞳が淡く光を宿し、
まるで、
「副所長。」
シダスの唇には、未だ消えぬ微笑が残っていた。
その声は穏やかで、まるで職場の頼れる先輩が後輩に向けて何気なく助言するような。
「あなたは優秀ですよ。ただ、考え方が硬すぎる。」
そう言いながら、シダスはゆっくりと手を持ち上げ、
そこには、彼の身分を象徴する胸章がついていた。
薄暗い灯りの下、その金属の表面が冷たく光る。
「もう少し、考えを柔らかくしてみてはどう?感情に囚われずに観察すれば、より多くのものが見えてくるかもしれない。」
シダスの口調はあくまで優しく、穏やかだった。
だが、彼の深紅の瞳はどこまでも深く、どこまでも底知れなかった。
まるで確かに存在する『何か』を示していながら、それを語るつもりはないとでも言うように。
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