第6話 大和高田 長谷本寺(白蓮の祈り)

 長谷本寺はせほんじは、静かな山間さんかんの中にたたずむ寺院だ。奈良時代から続くその古い瓦屋根かわらやねは、長い年月を経てもなお、訪れる人々の心を引き寄せていた。今日もまた、春の桜が風に舞い、寺の石段に薄桃色うすももいろ絨毯じゅうたんを作り上げている。


***


「母上……必ず治るのですか?」


 少年の声が震えている。その隣には、やせ細った母親が、顔を隠すように深い帽子をかぶり、息も絶え絶えに座っていた。二人は遠方の村から、奇跡を起こすという十一面観音じゅういちめんかんのんに祈りをささげるためにこの寺を訪れたのだ。


 本堂で待っていたのは、白いころもをまとった若い巫女みこ、白蓮だった。長い黒髪が穏やかに揺れ、清らかな笑みをたたえたその姿は、どこか現実離れしていた。


「お母様の病は深い祈りによってされるでしょう。ただし、大切なのは心のけがれを手放すこと。観音様は、そうした心に光をもたらします。」


 白蓮の声は柔らかくも芯があり、少年の不安をわずかに和らげた。巫女は本尊の前に座り、静かに祈りを始めた。




 深夜、鐘楼しょうろうから不思議な音が響いた。その音はただの鐘の音ではなかった。どこか悲しげで、人の声にも似た響きを持っていた。


 少年は音に目を覚まし、そっと寺の庭に出た。月明かりに照らされた庭園は、昼間とは違う神秘的な空気に満ちていた。鐘楼の下には、白蓮がひとり立っていた。風が彼女の衣を揺らし、まるで彼女自身が光を放っているかのようだった。


「鐘の声……泣いているようですね。」少年は小声で言った。


「この鐘は、戦国時代に多くの命を守ったと伝えられています。戦が迫る中、この鐘が悲しみの声をあげ、敵兵の心を揺るがしたのです。」


 白蓮は、鐘楼の下でそっと手を合わせた。


「祈りは形を持たずとも、人の心を動かす力があります。この鐘がそうであったように……あなたのお母様を癒す祈りもまた、観音様に届くでしょう。」


 少年は胸に手を当てた。その小さな手のひらの中で、かすかに鼓動が高鳴るのを感じた。




 翌朝、母親の顔に少しだけ血色が戻っているのを見て、少年は涙をこぼした。白蓮は母親に手渡すために、はすの花びらを一枚持って現れた。


「この花びらは、観音様からの象徴しょうちょうです。これを守り、日々祈りを捧げてください。祈りの心がつながる限り、光は途絶えません。」


 少年と母親は深々ふかぶかと頭を下げた。その後、寺を後にする二人の後ろ姿を見送りながら、白蓮は静かに微笑んだ。




 桜が散る季節が過ぎ、長谷本寺にはまた新たな人々が訪れる。白蓮の祈りと観音様のみちびきは、今もなお人々の心に奇跡の光を灯し続けている。




▢▢▢ エピローグ:史実とフィクションの解説 ▢▢▢


 本作は、大和高田の長谷本寺に伝わる逸話を基に創作されたフィクションです。


 **史実について**

 長谷本寺は実在する寺院で、歴史的にも重要な役割を果たしてきました。寺にまつわる「十一面観音の奇跡」や「鐘楼の伝説」は地域に残る伝承を参考にしていますが、これらは時代とともに語り継がれた物語であり、完全な史実ではありません。


 **フィクションの部分**

 作中の白蓮という人物や祈りの場面は創作です。白蓮の祈りを通じて、人々の心に宿る希望や信仰の力を描くことを目的としました。また、鐘楼の伝説や蓮の花びらのエピソードは、小説としての物語性を高めるために加えられた要素です。


 本作を通じて、長谷本寺という寺院が持つ文化的な魅力と、人々がつむぐ物語の力を感じていただけたなら幸いです。

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