50.戦いの時
「まだ、息子が家にいます」
震えるような声でそう叫ぶ女性がいた。
ユーラがすぐに事情を聞く。
「昨日から熱が出ていて。今日はだいぶよくなったのだけど、祈りの時には参加せず家で休むようにと……置いてきました。今から戻ってきます」
そう話している女性は、四、五歳くらいの女の子の手を引いていた。
「わたしが行ってきます。あなたはこの子と先に地下へ」
「知らない人が来たら怖がります。わたしが戻ります」
女性は嫌がっていたが、まだ幼い娘を一人先に地下へ降ろすことも躊躇われた。
「わたしが行きましょう」
そう名乗り出たのは、アイリスより少し年上に見える背の高い男性だった。
「先生!」
女性の顔が急に安堵に包まれた。
「わたしはその子供の学校の教師をしています」
「では一緒に」
ユーラの言葉で、アイリスと男性の三人は子供が残されたアパートへ向かった。
「本当に先生たちにも協力者がたくさんいるのね」
アイリスは独り言のように言った。
「みな、気持ちは同じですからね」
男性はアイリスの言葉に、優しく返した。
細い路地を走り、急いだ。
辺りはしんとしていたが、遠くで砲弾の鳴り響く音が断続的に聞こえていた。
――無事に武器庫を制圧できているといいのだけれど。
アイリスはダンテたちの無事を祈りながら、どこかでルーカスの顔がちらついていた。
こんな時に考えてはいけないと分かってはいたが、どうか無事でいて欲しい。
そう願うのは、敵側であるルーカスに対しても同じであった。
相反する願いのように思えたが、大切な人の無事を祈ることには変わりない。そう言い聞かせたが、罪悪感や裏切り行為のような思いがアイリスの足を鈍らす。
そしてそんな思いを振り払うように、アイリスは暗闇を無心で走ろうとした。
「あそこね」
地理も徹底的に把握していたユーラに比べて、自分の役に立っているかいないかの動きが歯痒かった。
これ以上、不安な様子なんて見せてはいけない。
アパートの三階で無事七歳くらいの男の子を保護した。
「先生!」
「お母さんが妹さんと待っているよ。おいで」
先生の呼び掛けに、すぐに頷いた男の子はおぶって連れて行くことになった。
「遠くですごい音が聞こえたから何の音かと思って……僕ちょっと怖くなってた……」
そう言って、涙目の男の子をアイリスは優しく撫でた。
「もう大丈夫よ。一緒に行こうね」
――こんな小さな子供たちまで巻き込まなければいけない……守る責任があるのだ。
アイリスはその幼い子供の姿に、心が揺さぶられるようであった。
一体どれだけの人の人生が変わったのだろう。非日常が日常になって、その日常がまた非日常になる。
この作戦が成功して、国を取り返すことができたとして、でもそれは以前のこの国とは確実に違うのだ。
先生がその子をおぶって、四人で小神殿に戻ろうとアパートの三階から降りようとした時だった。
南側の方角に明かりが見えた。
――あれは……
ユーラもそれに気付いた。
「もしかして……南側からアンデが進行している? でもおかしいわ。一番近くの駐屯地から兵を動かしたとしても、こんなに早くには着かないはず……」
「南側には中部の反乱グループが向かうはずよね」
「ええ、武器庫の方が制圧できたら、その足で首都グループと北部グループの一部が向かい、北進してきたアンデ軍がこの街に入ってきたあたりで、南側から中部グループと挟み撃ちにする予定……」
アイリスは嫌な予感がしていた。
特別部隊が来ていたこと、そしてルーカスはあの時、『何か知っているのか』と訊いてきた。
急に気持ち悪くなって吐き気に襲われた。自分の一つ一つの言動が、何かとんでもない暗転への道を導いていたのではないか。
「アイリス!?」
顔面蒼白になっているアイリスにユーラが呼びかけた。
「知らせなきゃ……こんなに早く南側から敵が進軍しているなんて……」
アイリスが必死に出した言葉にユーラはすぐに反応した。
「わたしが行くわ。アイリスはこの子を連れて、さっきの神殿へ」
アイリスは小声で言った。
「わたしが行く」
アイリスは自分でもその言葉が出ていたのに驚いた。
冷静に考えられれているのか自分でもはっきり分からなかった。ただ、その言葉は本心だった。
「何を言っているの!? あなたは武器も携行していないのよ」
あり得ないと、諌めるようにユーラが声を上げた。
男の子が我慢していたのだろう、声を上げて泣き始めた。
「僕が行きましょう」
先生が言った。
「いいえ。……ここから武器庫の辺りへはわたしが以前住んでいた場所を通っていきます。あの辺りは道の作りは変わっていなかった。最短距離がわかります」
アイリスは先生の申し出をきっぱりとした口調で断った。
「とにかく下に降りましょう」
ユーラの声で、みな階段を降り始めた。
その後ろ姿を見ながら、アイリスがもう一度言った。
「わたし、このままダンテたちのところまで知らせに行ってきます」
それははっきりとした、よく聞き取れる声だった。
「では、わたしも一緒に行くわ」
アパートの下まで降りたところで、ユーラがアイリスに言った。
「……避難誘導はもう一か所残っているし、一人の方が敵にも見つかりにくいと思う」
砲弾の音を聞くだけで怖がっていた自分が、なぜこの時こんなにも断固とした決断をできたのか。
それは、みなが命懸けで戦っているという非日常が放出させるアドナリンのせいだったのか、どこかで自分が死ぬはずがないという根拠の欠けた信念のせいだったのか、それとも自分の言動の一つ一つがどこかでこの戦いの行方を変えてしまっていたのではないかという罪悪感のせいか。
そしてそれをまだ食い止めることができるかもしれないという、焦りと希望。
この時の命を懸けた決断を、アイリスは一生忘れなかった。
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