30.その先へ
「ダンテ……!」
それは紛れもなく、ダンテの姿だった。
「アイリス……」
ダンテは顔を歪めて、泣きそうになっていた。
表情がくるくるとよく変わり、なんに対しても好奇心旺盛で、いつもアイリスの話を聞いては笑って、怒って、時には一緒に泣いていた。
アイリスにとっては、この人には何も隠さなくていい。そう思える家族以外の初めての人だった。
それが恋と言われるものであってもそうでなくても、アイリスはこの人と一緒に生きていきたい、そう考え始めてさえいた。あの戦争までは。
ダンテはアイリスを抱きしめたい衝動に駆られていたが、路上で目立つのは避けたかった。
「とにかく中へ」
ダンテははやる気持ちを抑えて、アイリスを近くの店に入れた。
「わたしは、今日はここで」
ユーラはそう言うと、足早に去ろうとした。
「え!? ここで? まだお礼も言えていないわ」
アイリスの声にユーラは立ち止まった。
「また近々会うはずだから。その時にでも」
そう言って微笑み、足早に去っていった。
「さあ、とりあえず中に。僕の部屋はこの店の二階に借りてるんだ」
そこは、首都の中心地近くで、簡素な三階建てのレンガ造りのアパートだった。一階が商店や飲食店、二階から上が居住スペースというポリシアでの一般的な建物だった。
「アイリス……」
部屋に入るなり、ダンテはアイリスを強く抱きしめた。
「こんなに身体が冷えている。寒かっただろう。山を越えてきたのだろう……。ここで待つしかできなくて本当にすまなかった」
ダンテは本当に泣きそうだった。
「ダンテ……。泣かないでよ。もう」
そう言って、元気よくダンテの腕を離したアイリスは、笑いながらダンテを見た。
少し、やつれたのだろうか……。いつも綺麗に剃っていた髭が、今は無精髭のように生えていた。髪も以前よりは長い。
そんなことを考えながらも、アイリスは無意識にルーカスを思い出していた。
ルーカスはいつもきっちり整えた髪、シワ一つないシャツを着ていた。夜帰宅すると疲れてはいたが、いつもどこか緊張感があった。
それが、二人で過ごす時間が多くなるにつれて、夜は少しずつ緩やかになっていた。
特に、夜食を食べ終えると二人で他愛もない話をすることも増え、その時間が愛しかった。
ダンテとの再会はとても嬉しいのに、思い出すのはルーカスのことばかりであった。抱き締められても、どこかでルーカスの匂いや、抱き締められた時の包み込むような彼の身体の線を思い出していた。軍人としても優秀だったルーカスは身体をよく鍛えていた。
ポリシアに帰ってきて、かつての恋人と感動の再会をしたのに、アイリスの頭の中はずっと記憶の中のルーカスの姿を追っていた。
もう、今ある記憶の中以上の彼に会うことはできない。
そう思うアイリスの胸は、自分が想像していた以上に締め付けられていた。
「大丈夫?」
温かい紅茶を淹れてくれたダンテの、心配そうな顔がアイリスを覗き込む。
「ええ。ちょっと疲れが出ただけ」
「そりゃそうだよね。国境の山越えをしてきたんだから……。本当にここに帰ってくることができて良かった……」
ダンテは我慢していた涙を流した。
「ありがとう」
アイリスはその暖かい涙を見て、自分の心も少しずつ温まるのを感じた。
――大丈夫。きっと、ここでわたしは過去の自分を取り戻せる。
「……わたしの、家族のことを教えて」
訊くのはとても勇気がいった。
だがアイリスが今、最も知りたい事でもあった。
アイリスのその心情を見てとったダンテはすぐに答えた。
「アイリスのお母さんは、今ルーチェのとこにいるよ」
涙を拭いながら答えるダンテの明るい声に、アイリスの顔もすぐに明るくなった。
ルーチェはアイリスの妹で、地方都市に嫁いでいた。
「お姉さんは、首都の外れにある病院で働いている。変わらず毎日、走り回っているよ」
その答えで、アイリスはさらに顔が明るくなった。
しかし、次のダンテの言葉に、アイリスは涙を堪えることはできなかった。
「お父さんは……デュロー省長は戦闘に巻き込まれて亡くなった。だけど、あの日の戦闘では遺体の損傷が激しくて……また、占領下ですぐには身元を確認できなきくて。遺体の一部をみんなで確認したそうだよ」
「そう……」
そう答えるのが精一杯であった。
大丈夫?
ダンテはそう言う替わりに、アイリスが握り締めていた両手を、自分の手で包み込んだ。そうして、小さく唱えた。
「神の御加護を」
――神が、いるのか。
ダンテの優しさや思いやりはアイリスの心を温かくしたが、捕虜となり、ただひたすらに父を奪った国で労働してきたアイリスには、もはや何かを強く信じられるような心はないように思えた。
――こんな時、ルーカスならどうするのだろう。
連れて来られた異国の地で、唯一優しく接してくれた人を美化しているだけかもし
れなかった。
けれど、今は何かをする度に彼の面影を探し、彼ならわたしにどんな言葉をかけるだろうか、そればかり考えていた。
それはまるで、一種の信仰心のようであった。
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