23. その先へ
「あと、どれくらい……」
そう声に出したつもりが、刺すような冷たい風の音に、その言葉はかき消されていた。まだ雪原という時期でもなかったが、季節は確実に冬の入り口であり、この山の標高ではすでに雪景色であった。
「アイリス様。しっかり!ここを越えれば難所は終わりです」
前を歩く女が叫ぶ声がかろうじて聞こえる。彼女との距離がこれ以上空けば、恐らくもうこの山を降りることはできない。本能でそう感じていた。
自分の足で踏みしめる雪の感触が薄れてはいけない。そう思うのに、ふいに全身の力が抜けそうになる。
「お父様……」
声に吐く息が混じる。その息はかなり白い。
「苦しいか?もう少ししたら、今日泊まるところだぞ」父の声は力強かった。
――確か、去年もこの辺りで……。
アイリスは、記憶を辿る。去年はまだ姉もいたが、今年はとうとうその姉も参加しなかった。
毎年秋の終わりに、郊外の山を登るのはアイリスの家族の恒例行事であった。しかし、最初に母が、腰が痛くなるとやめ、妹もこんな辛いことはしたくないと参加しなくなり、そしてとうとう姉も試験前だからやめておく、と辞退した。
「結局、わたしとアイリスだけになったな」
そう笑う父は、毎年この山登りを楽しみにしていた。
けれど、特段身体が丈夫というわけではな
アイリスにとっても、実は辞退したい行事の一つであった。
けれど父の楽しそうな顔を見ると、断った時の悲しそうな顔が安易に想像できてしまうので、わたしだけは参加しなくては、と使命感に駆られたアイリスだけは今年も変わらずに山に来ていた。
しかし、いつも頂上に辿り着く前に苦しくなる。
まだ十歳を過ぎたばかりのアイリスにとっては、限界がいつきてもおかしくない登山であった。
息を吸っても吸っても頭がくらくらしてきた。今年もまた頂上まで行けないだろう。
「どうして、苦しいのに登るの?」
結局、今年も頂上の手前でリタイアした。けれどアイリスの父親は笑っていた。笑って、小さなアイリスの頭を撫でた。
「ここまでよく頑張ったな」
そんな父親に、アイリスは尋ねた。なぜつらい思いをしてまで山に登るのか。
その返答は、幼いアイリスには理解できないものであった。
「苦しいから登る」
アイリスが全く理解できない、という顔で父親を見る。
「あそこから見る景色はどんなだろう、と思う。お前はあそこに立った時何と思うだろう、と想像する」
頂上の方を指しながら、父は優しく笑った。
「だけど、もしかしたらそんなことを想像して挑戦する時が一番楽しくて幸せなのか
もしれない。お前にあの景色を見せたら喜ぶだろうか、感動するだろうか。そう考えるとお父さんは幸せになるんだ」
あの時の父の大きな身体と笑顔が目の前に見えるようだった。
しかし、すぐに頬に突き刺すような冷たい風が、時を現実へと戻す。辺り一面真っ白だ。
――今、あの父は横にはいないのだ。そして日没までにこの山を越えることができなければ、わたしは死ぬだろう。
前を歩く女と、後ろにかろうじてついてきている2人の女たち。
――この女性たちが、自分がこの山を越えた時に喜んでくれるのだろうか。感動してくれるのだろか。
考えるだけ無駄な気もしたが、この者たちが、なぜわたし一人のためにこの危険な付き添いをしてくれているかは、薄々分かり始めていた。
この女性たちと出会った時期はそれぞれに違っていた。
前を歩く女に、アイリスは買い物の途中で声を掛けられていた。
ルーカスの屋敷で言づけられた買い物の帰り道に出会ったその女性。
最初に声を掛けてきたあの日――。
「北部の訛り。すぐ分かるわ」
そう言って微笑む彼女の瞳にどこか見覚えがあるような気がしていたが、アイリスは思い出せなかった。
「そんなに警戒しないで。わたしもポリシアから来たの」
そう話す彼女にも北部訛りがあった。
「これ、ここでは使うことはないかもしれないけれど……」
そう言って手渡されたのは、ポリシアの国花が描かれたしおりであった。薄い紫の花。
この地では咲かない。寒い気候でしか咲かない花であった。
「アイリス!」
呼び声に我に返った。
「ここを越えれば今日の野営地に着くわ。もう峠を越える。大丈夫。陽が落ちるまでにはここを超えられるわ」
彼女はそう言って、雪の反射で白いのか、ただ単に血色が悪くなっているのか分からない青白い透き通るような顔に、精一杯の笑顔を作りながら言った。毛糸で厚く作られた帽子からは美しい金色の髪が見え隠れしていた。
幸いにも天候は晴れ。
陽が当たるうちにここを越えてしまえば大丈夫。それは言い換えると、ここを越えることができなければ、もうどうしようもないということだ。
アイリスたちが越えようとしている山は、ポリシアとアンデの国境に位置する山であった。この時代、この世界にはまだ飛行機というものは登場していなかった。そのため、長距離を移動するには陸路か海路しかなかった。
アイリスたち一行は、アンデから山越えでポリシアに入ろうとしていた。
アイリスはポリシアの地を踏もうとしていた。今はアンデに併合されアンデの統治府が置かれていたが、アイリスにとってそこは、紛れもなく自身の祖国であった。
この雪原の先に、この大地の先にポリシアはあるのだ。そう思うと、足に力がこもる。
何とかここを越えねばならない。その思いだけが、止まりそうになる足を、身体を、奮い立たせていた。
軍人ではないアイリスにこの山越えをさせるのは賭けである、と彼女、いや、アンデでアイリスに接近し、アンデからの脱出を促したこの女性、ユーラは覚悟していた。
――だが、彼女を帰国させなければ。
ユーラの中には強い意思があった。
ユーラはアイリスと同じポリシアの出身であった。ただし、戸籍にはない人物。
アンデに潜り込み、開戦前から諜報活動をしていた。
ルーカスがいつの日か話していたスパイであった。
「わたしは、アンデにもう十年以上住んでいるの。ポリシアの本当に一部の要職の人たちにしか知らされていない存在。書類には証拠も何も残されていない、口頭でしか伝えられていない存在……。けれど、この戦で王や国は滅亡した。わたしたちの行き場もない」
人目を避けた、街の外れの広場で、幼い子供を遊ばす母親に混ざって会っていた二人は、お互いの経緯を少しずつ話した。
「あなた、宗教省のデュロー省長の娘ね」
アイリスは警戒心をなかなか解くことができずに、自身の身の上話はあまりできなかった。ただ、訛りでポリシアの北部出身ということは言い当てられていた。
しかし、それがなぜ、自分の父親のことまで言い当てられたのだろう。
答えに詰まっているアイリスに、ユーラは続けた。
「あなたとは一度、会っているわ。神殿で祈りを捧げていたわたしに、まだ学生だったあなたは声をかけたの」
「あっ!」
アイリスは咄嗟に神殿で話しかけた女性の姿を思い出した。確か五年以上も前の話だった。
「ふふ。覚えているの? 相当記記憶力がいいか、わたしがあなたに印象を残してしまったか。諜報活動をしている者としては、あまり人の記憶や印象に残らない方がいいのだけれどね」
そう言って小さく笑うユーラの顔を、アイリスは朧げながら思い出していた。
印象に残っていたのだ。閉館の時間を過ぎても熱心に祈っている彼女の姿は、どこか神々しく、それでいて少し悲しそうであった。
「あなたが、どこにいても神に祈ることはできる、と言ってくれた言葉に救われたこともたくさんあったの。信仰心はそこまで強くないと思っていたけれど、この戦争で、あまりにも多くのことを体験し過ぎて、心が壊れそうになることが何度もあったの。神がいるのかさえわからない。信仰が何になるかも分からない。けれど、ただ『祈る』という行為が、時に、わたしの心をとても強く癒してくれた」
そう言って上を見上げた彼女は、やはりどこか神々しかった。
祈りとはどこか美しく、そして時に、どうしようもない恐ろしい状況で捧げるものであった。極限の中で捧げられるものは、究極の美を作り出すような気さえしていた。
それ故に、人は祈りに支えられ、癒されるのか。
信仰心とそれに支えられるものを、アイリスはずっとどこかで問いかけていた。
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