憲法盗難事件

雨森 すい

第1話 

 その夜は伊藤博文、井上毅、金子堅太郎の三人で飲んでいた。

 少しだけ開けた障子の隙間から、冷たい風が火照った頬を冷やす。


「・・・あれ、巳代は?」


 暫く経ってから伊藤が問う。巳代、というのは伊東巳代治。後に伊藤三羽烏と呼ばれる一人となる色白の美青年である。伊藤と同じ苗字の為、近しい人からは『巳代、巳代』と呼ばれることも少なくない。


「巳代治ならお風呂じゃないかな。」


 その確証がないためか、金子がポツリと独り言のように言う。

 風が吹き、三人の髪をふわりと撫でる。妙にその風が冷たく、伊藤は身震いをした。


「ふーん」


 井上がお猪口をコトリとおいた。


 月明かり差し込む部屋に沈黙が訪れた。



 途端、喧しい足音が聞こえ、隙間のある障子が音を立てて開いた。


「伊藤さん!僕のカバン知りませんか?」


 足音の主は先ほど話に上がっていた伊東巳代治。

 普段は落ち着きのある冷静な彼が何やら興奮したように息を切らし部屋に乗り込んでくる。


「巳代治、どうかしたのか?」


 普段と違う巳代治の様子に眉間に皺を寄せながら井上が聞いた。


「毅さん…、それが、」


 巳代治は畳に手をつき、風呂上がりであろう髪が乱れるのも気にせずバッと勢いよく顔を上げる。


「僕の鞄がないんです!」


 伊藤は目を見開き、巳代治の目線に合わせ詰め寄った。


「待って、どういう事?巳代治の鞄って憲法草案が入ってるよね。」


「それが、ないんです。」


 動転し、金子はお猪口を落としかけた。なんとかこぼさずに受け止めると盆に置く。


「何があったの?」


「事情は探しながら聞くから!一旦探しに行くよ!」


井上の声に三人は頷くと部屋の外に駆け出していった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る