眠れる魔術師の見張り番
夜長律希
プロローグ
ひどくうなされていたネイトの目が覚めたのは、よく晴れた朝の十一時だった。背中の不愉快なべたつきを感じながら、ぼんやりとする頭でネイトは思った。
ああ、いつものやつか、と。
だけれど、おかしい。
視界に映っているのは、木目が
「はっ」
と声を上げ、ネイトは危機に備える手負いの獣のように、体を気張らせる。同じ空間に、人の気配がしたからだ。
先程まで身を置いていた、イヤな世界が蘇ってくる。母を目の前で殺され、真っ暗な世界を裸足で逃げ続ける、果てのない夢だ。
「お目覚めかい?」
と、声をかけながらネイトの顔を覗き込んだのは、黒髪の男だった。
「誰だ!」
ネイトはぎろりとイアンを睨みつけた。
まだ重さの残る右手をなんとか伸ばし、魔術を発動する。ぱちん、と音がしたかと思うと、宙に水の輪があらわれた。それは高速で回転しながら、男の首をきゅるきゅると絞めつけようとする。
「おい! 待ってくれ。イアンだ。もう、忘れたのか? 冗談はよしてくれ」
両手を上げて「なにもしません」のポーズをとりながらイアンは答える。
「……ああ。そうだったね。僕は山奥に隠れるのをやめて、君についていくことにしたんだった」
ネイトは自分に状況を言い聞かせるようにして、うなずいた。
「思い出したようでなにより。その通りだ」
「それって、一週間ほど前のことであってる?」
ネイトが確認するように、尋ねる。
「そうだ。そして二日前に、あなたは眠りについた。すやすや、というわけにはいかないようだな。ひどく、うなされていた」
イアンは情報を補足しながら、枕元に置いていたタオルで、ネイトのおでこと首元の汗をぬぐってやる。ネイトはというと、目の前の男にされるがままだ。そうやって人から世話を焼かれることに対して、慣れているようにも見える。
「まあね。イヤな夢にうなされるのはいつものことだよ」
ネイトはやるせなさそうに首を横に振った。
「そうか」
「はあ……。魔術師になった代償とはいえ、いまだに慣れないよ。週に一度は、二日間眠り続けるだなんて。おまけに三日目は、体が思うように動かない。まったく……。こうやって、起きるたびにまたかといやになる」
ネイトは小さく息を吐く。
半分だけ起こしていた体を再びベッドへと沈めると、ぽふん、とまぬけな音がした。
「こっちも肝が冷やされるな。眠りから目覚めるたびに、俺を殺そうとするなんてことは、やめてくれよ? 今から先が思いやられる」
タオルを宙で器用に畳みながら、困るなあ、といった様子でイアンは首を振る。
「次は大丈夫だよ。今回は、君と出会ってから、最初の眠りだったから。だいたい、いきなり、顔を覗き込んでくる方が悪いんだ。誰だって警戒するさ」
ネイトがふいっと顔をそむけると、胸まで伸びた髪がシーツの上にぱさりと広がった。窓から差し込む太陽の光が白い髪の束に反射して繊細に輝く。
それは、まるで、朝露に濡れたスノードロップの花びらのようだった。
その髪の美しさに思わず魅入りながら、イアンは口を開く。
「俺は少し様子を見にきただけだ。そろそろ起きる頃かと思ってな。まったく、ついさっきまでは眠り姫のようにおしとやかだったものの」
やれやれ、とイアンはため息を吐く。
「なにが姫だ。僕は男だ」
「知ってるさ。王子様、だろう。当国の王位継承権を持っていた」
掛け布団をネイトの首のところまでかけてやりながら、イアンは言った。
「形上はね。でも、僕は権力になんて興味はなかった。だから、あいつも、王位継承権を譲れと、直接言ってくれればよかったんだ」
ネイトはそこまで口にすると、くっと喉を鳴らした。闇の中、一人もがく夢を思い出しながら。
イアンは何も言わず、ネイトの言葉の続きを待った。
「あんな汚い手を使いやがって……。そのうち、後悔させてやる。絶対に。絶対に……」
言葉の後半になるにつれて、ネイトの声は小刻みに震えた。これ以上、感情を抑えてなんかいられない、といったように。そして、己の忌まわしい敵がそこにいるかのように、彼は石の壁を睨みつけていた。
「……そのためにも、今は好機を待たなくてはな。魔術を磨き、情報を集め、栄養をつけながら、
イアンはネイトをなだめるように、ゆっくりとそう言いながら、窓を開ける。気分を変えよう、とでも提案するかのようだった。
カーテンがふわりと膨らみ、ほどよく冷えた秋の風が、部屋の中へと舞い込んでくる。どこから漂ってくるのだろう。ほのかに、焼き立てのパンの匂いがした。
「ふう。……そうだね。お腹が空いた。イアン、食事を」
吐息とともに気持ちを落ち着かせたネイトは、ひとまず今目の前にある生理的欲求に向き合うことにした。いくら、激しく気持ちを高ぶらせても、すぐになにかができるわけじゃない。そういうことを、彼自身きちんと理解しているのだった。
「ああ。すぐに用意しよう。さっき、パンを買ってきたばかりだ」
「へえ。焼き立てだろうね?」
「もちろん」
「あ、それから水も頼むよ」
ネイトは当然の権利であるかのように、あれこれと矢継ぎ早にイアンに命じる。
「ああ……じゃない! 待て、待て。俺は、ネイトの召使じゃないんだが?」
ネイトの傲慢な言動に流されそうになっていることに、イアンは気が付き、抗議の声を上げる。
「そうだっけ? まあ、いいじゃない。僕、喉が渇いてたまらないんだ」
「そうだっけ、じゃない。俺はネイトが眠っている間の見張り番だ」
眉をひそめるイアンは、はっきりとそう口にする。
「ふうん。似たようなもんでしょ?」
「全然違うぞ。まったく……。それに、水なら自分で出せるだろう」
さっきみたいに、と言いながら、イアンは水滴の残った自分の首元に指を添えて見せる。
「あれ? イアン、君、ひょっとして根に持ってるの? へえ。意外と心が狭いんだね」
ネイトは面白いものでも見つけたように、にんまり笑った。
「まさか! このくらいのことで」
ネイトの挑発をかわすように、イアンはうやうやしく答える。
「ふうん。まあいいや。ねえ、水くらい持ってきてよ。ダメなの? 自分で出すのはめんどうくさいんだ」
「仰せのままに」
「もう! そういう態度、いいから。早くして。あと、食後はフルーツも忘れないようにね」
ネイトは横になったまま、しっしっと追い払うように、右手を動かす。つい先程までの暗い影が色を薄め、いつもの調子を取り戻したようだった。
「はいはい。……ふむ、やはり不思議だな」
イアンは扉へと向かっていた歩みを止めて呟く。
「なにが?」
「あの山奥の小屋に住んでいたとき、いったいネイトはどうやって暮らしていたんだ?」
ベッドのある方へと振り返ったイアンは、はて、と首をかしげる。
「……僕も思い出せないんだよね。まさか、自分で支度をしていたわけではないと思うんだけど」
「そうだろうな。一人ではほとんどなにもできないのだから」
「は?」
ネイトが低い声を出す。
「本当のことだろ?」
「くそっ! 本調子に戻ったら、覚えておきなよ」
「口が悪いなあ。どこで覚えたんだか」
ネイトが喚く声を背中で聞きながら、イアンは扉を開ける。
「おっと。キャロル、いたのか」
イアンがびっくりしたように声を上げた。
そこにいたのは、一人の少女だった。
ツヤのある金髪は、肩より少し上の高さできっちりと切りそろえられている。彼女が手に持っているのは、木製の四角いトレイだ。その上に水を入れたマグカップをのせている。
「うん! 話し声が聞こえたの! だから、目が覚めたのかなって思って」
部屋のなかを覗き込んだキャロルは、ネイトの姿をとらえたとたん、ぱあっと表情を輝かせた。
「あ! おはよう! やっぱり、起きてた」
キャロルはイアンの横を通り過ぎ、ベッドのそばへと近寄った。
「うん。ついさっきね」
と言いながら、ネイトは体を起こす。
「気分はどう? 辛くない? 二日前、いきなりぐったりするものだから、あたしびっくりしちゃったの」
「うん。平気だよ」
キャロルの醸し出すほのぼのとした空気にのみこまれたからか、ネイトの声も自然と柔らかくなる。仲の良い姉妹のような微笑ましいやりとり。二人を見ていたイアンは、人知れず目を細めた。その様子は過去を懐かしむかのようにも見える。
「それならよかったわ! はい、お水。喉が渇いてるでしょう? ずっと寝ていたもの」
「ありがとう。キャロル」
ネイトは体を起こし、マグカップを手に取った。お水は白い喉に吸い込まれるように、みるみるうちになくなっていく。
「まあ! ノアったら、もう全部飲んだのね」
キャロルがくすくすと笑う。
「もう一杯、もらってもいいかい?」
ノア、と呼ばれたことには触れず、ネイトは尋ねる。
「もちろん! ちょっと、待っていてね」
とキャロルは答えてから「あ!」と声を上げる。
「ノア! 髪の毛、あとで可愛くまとめてあげる。あたし、あなたが眠っている間に、藁で練習したのよ」
ほそーい藁、そこらじゅうで集めるの大変だったんだから、とキャロルは付け加える。
「え、いや。それは……。大丈夫」
ネイトはしどろもどろになる。
イアンに対してはふんぞりかえるような態度だったネイトも、少女にはかなわないらしい。彼が困っている様を見て、イアンは笑いをこらえた。
「ええ?! 外では女性のふりをするのよね? なら、完璧にしなきゃ。髪がぼさぼさだと、かえって目立つもの。ね、ね! お願いだから!」
キャロルはアーモンド色の瞳で、じっとネイトを見つめる。
「ふう。それもそうだね。あとで任せるよ」
ネイトは勢いに押されて、しぶしぶうなずく。
「やったあ。約束よ!」
キャロルはそう言って、からっぽになったマグカップと一緒に部屋を出て行った。室内には、ネイトとイアンが残される。
「今日は外出する予定はないから髪はこのままでいいのだと、はっきり言えばよかったんじゃないのか」
イアンが言った。
「そうだけど、あんなにキラキラした瞳で言われたら、断れないよ」
ネイトは弱った小動物のように、のそのそと布団へと戻ろうとする。
「へえ。優しいところもあるんだな。その欠片を、少しでも俺にも向けてくれたら嬉しいんだが」
「必要のないことだね。それより、なに突っ立ってるの? 僕のご飯は?」
「はいはい。少しお待ちを。ネイト様……。いや、ノア様」
「様はいらない!」
という声を聞きながら、イアンも部屋を出る。
パタンと扉の閉まる音が、石造りの一軒家の廊下に響き渡った。
ノアと呼ばれた彼の本名は、ネイサン=アルベルト。通称ネイト。だが、一週間前に、山奥の小屋を出てからは、ノアと名乗っている。
美しくも幼さの残る愛らしい顔と、白色の長髪をいかし、女性のふりをしながら。
眠れる魔術師の見張り番 夜長律希 @kon-kaku
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