雑文集

　私は横浜で生まれ育った。

　横浜と聞けば、海を望むホテルや観覧車、ライトアップされた美しい夜景を思い浮かべるかもしれない。でも横浜にもピンからキリまであって、私の地元は煙突が立ち並ぶ海沿いの工業地帯。家の前をトラックが爆走、排気ガスと工場から出る煙で空気は淀み、住みやすいとはお世辞にも言えない、限りなくキリに近い横浜だ。

　海が近いという理由でその地に住み着いた祖父の趣味は釣り。三度の飯より釣りが好きで、それは父にも思いっきり遺伝していた。

　台風なのに海の様子を見に行った祖父が帰ってこず、連れ戻しに行った父も帰ってこない。心配になって警察に連絡すべきか悩んでいたら、テレビ神奈川で荒れる港の様子が中継されており、それを見た母が「ハヒィ！」と謎の奇声を発した。何事かと駆け寄れば、中継画面に台風の中で竿を振っている祖父と父の姿が映りこんでいた……。

　祖母の「バカはほっといて蕎麦をゆでるよ」という言葉は今でも耳に残っている。

　別の日、父が「竿が折れちゃってよぉ！」と落胆した様子で帰宅、小一時間ほど竿をいじった後「じゃあ、病院に行ってくる」そう言って立ち上がった。なぜ竿が折れたのに病院へ？　よく見れば、父の左薬指と小指が明後日の方向に折れ曲がっていた。

　指が折れた事より、釣り竿が折れた事の方がショックだったらしい……。

　他にも逸話は山ほどあって家族は困っていたけれど、趣味に全力過ぎる二人の事が私は好きだった。

　私に釣りへの愛は遺伝せず、近所の海にもほとんど行かぬまま、東京へ出てきて結構な年月が経つ。

　横浜で思い浮かぶのは、爽やかな海や潮風とは正反対、油臭い工場や排気ガスだ。心癒される光景じゃない。でも同時に、釣り竿を担いで海に向かう祖父と父の姿、それを呆れながらも笑顔で見送る家族の姿が浮かんできて、嫌な事があった時にはなんだか元気が出てくるのである。

　自慢はできないけれど愛おしい場所、それが私の横浜だ。