四章 恋と伝説と神社
第17話
二か月前のこと。
修学旅行から帰ってきたアルトは自宅のリビングでお土産を広げた。
祖父、弦二郎への手拭いはもちろんのこと、八つ橋やたこ焼きせんべいをはじめとしたお土産も喜んでもらえた。
味を気に入って買った奈良漬けは大切に冷蔵庫にしまった。
その後は晩御飯を食べ、ゆっくりと湯舟に浸かった。ちょっとだけ久しぶりの我が家は懐かしくて安心する。
入浴を終えるとアルトは洗面台の前に立った。
楽しかったが疲れた。今夜はぐっすり眠れそうだ。
その前に……と、彼女は鏡の前で頬をぐにぐにとつまんだ。
(あの時笑ったような気がしたけど……)
しかし、鏡越しに目が合うのはいつもの無表情な自分。
子どもの頃以来表情がない自分が、突然笑顔を浮かべられるなんてありえないか。
アルトはそう思い直すと自分の部屋に引っ込んだ。
修学旅行から帰ってきたばかりなので明日は特別に休み。祖父母たちにもゆっくり寝なさい、と言われている。
次の朝。アルトはいつもより遅くに目覚めた。
リビングに行くと、ちょうど焼き上がったというめんたいマヨネーズのパンを律子がお皿に乗せていた。
半分寝ている脳でそれを食べ、身支度を整える。休みだが行きたいところがあった。
アルトは店先の祖父母に声をかけ、外へ出た。手には鹿のイラストが入ったプリントクッキー。
学校とは反対の方角へ歩くと一ヵ所だけ、背の高い木々が集まった場所がある。遠くからだとブロッコリーみたい、と子どもの頃に思ったものだ。
それは鎮守の森でこの町唯一の神社がある。大きな鳥居の前には『
鳥居をくぐると細長い石が拝殿へ導くように並んでいる。一歩踏み入れば空気が変わり、頬に当たる風が冷たくなる。夏に来ると涼しい。蚊に食われることもあるが。
アルトは石畳の隙間に足を取られないようにゆっくりと歩いた。幼い頃は必ず転んでいたものだ。
拝殿の前にはまた鳥居があり、手水舎がある。ここからは平らな石畳が敷き詰められており、足元に注意しなくて大丈夫だ。
(……あ)
賽銭箱の前で竹ぼうきを手にした少女がいた。彼女の場合、娘と言った方が正しいだろうか。
「こんにちは、
遠慮がちに声をかけると、彼女が顔を上げた。
腰まで届く長い黒髪、真っ赤なカチューシャ。巫女服を着た蘭花は顔を輝かせた。
「アルトちゃん!」
大きな撫子色の瞳が見開かれる。アルトがぺこっとお辞儀をすると駆け寄ってきた。
「おかえりなさい! 修学旅行、楽しかった?」
「うん。すっごく。これ、お土産」
「わぁ……。ありがとう!」
彼女、杢野蘭花には引っ越してきたばかりの時からお世話になっている。
彼女は今年22歳の大学生。アルトにとってお姉さん的存在だ。
成長した今でもこうして通い、おしゃべりをすることがある。
そしてベーカリーREIONの取引先でもある。祭りの度にパンを発注してくれるのだ。それだけでなく、蘭花は日常的に買いに来てくれる。
「そういえば塩パンって季節限定じゃなくなった? この前行った時に売ってたんだけど……」
「うん。夏だけじゃなくて通年商品になったよ」
「嬉しい! 私塩パン好きなんだ~」
少しだけ話すと、アルトは”またね”と鳥居の向こうへ消えた。その足取りは軽く、浮足立っているようだ。
蘭花はその後ろ姿にほほえんだ。
彼女と知り合って十年。最近はよく会う友だちができたようで、この神社に訪れる回数が減った。
寂しいが、友だちの双子のことを話す明るい声は聞いていて嬉しくなる。
「蘭花や」
「おばあちゃん」
感傷的になっていたら再び声が聞こえた。今度は拝殿からだ。
お昼の神事のために上がっていたのだろう。背中の曲がった老婆が、ゆっくりと歩きながら現れた。蘭花の祖母、
「刀……。
「うん」
菖蒲はほんの少し背中を伸ばすと、鳥居の向こうへ視線を投げた。
杢野家では代々、この菊理神社を守ってきた。今は菖蒲が中心となって神社を管理している。
蘭花の両親は共働きで神社に関心がないため、菖蒲がもしもの時は蘭花が継ぐことになっている。
それに、二人よりも蘭花の方がはるかに向いていた。
「あの子の様子はどうじゃった?」
「相変わらず読めない。けど、今年に入ってからすっごく雰囲気が明るくなった」
杢野家では代々、受け継ぐ能力がある。
それは人の魂の穢れを見ることができる、というもの。あまりにも穢れ切った魂の持ち主なら敷地に入った瞬間に分かる。全身で静電気を感じたように弾かれ、直後に強い寒気を感じるのだ。
その人が気づかない内に穢れを払い、清らかな気持ちで送り出すのが蘭花たちの仕事。
菖蒲もその力を持っているが、彼女でもアルトの魂を見ることはできなかった。まるで彼女の魂が茨で包まれ、並大抵の人間では近づけないように。
『警察がこんなことを言うのはあれですけど……。これは妖刀です』
玲嵐という刀を預かることになったのは、蘭花とアルトが初めて出会った直後だった。
当時十二歳と幼かった蘭花だが、菖蒲は神社を管理する者の一人として数えてくれた。
「蘭花や。お前もおいで」
「はい!」
子ども用の巫女服に身を包んだ蘭花は元気よく返事をした。
境内の掃除を中断し、菖蒲と共に客人を自宅へ案内する。神社の敷地内にある小さな家には祖母が一人で暮らしている。
客人はスーツを着た体の大きな男と、何度も会ったことがある町のおまわりさんだった。スーツの男は顔つきが険しい。手には布で覆った細長いものを手にしていた。
おまわりさんのお兄さんはその後ろを静かに歩いていた。蘭花と二人きりになると、”お手伝いしてえらいね”と頭をなでてくれた。
祖母の自宅に入ると、蘭花はお茶の準備に取り掛かった。小学校に入って何年かしてから、こういった仕事もまかせられるようになった。お茶菓子の場所だって分かる。
脚立に乗ってお茶が入った缶を取る。戸棚を開けて急須を取り出すと、襖の向こうから声が聞こえた。
「この刀は例の親子惨殺事件の凶器です。しかし、それまでは本署で押収品として保管していました」
「押収品がなぜ、外に?」
「……それはお答えできません」
これは後から菖蒲に教えられたことだが、警察に古物を預けられたのはこれが初めてだったらしい。
彼女は物体の穢れを祓うことができる。そのため、古物商からいわくつきのものを預かることがあった。
お茶の準備ができたので持って行くと、大きな男は口をつぐんだ。おまわりさんは優しくほほえんでくれた。
「構わん。続けとくれ」
「でも……」
「この子はいずれわしの後を継ぐ。今知るか、後に知るかの違いだ。蘭花、わしの隣においで」
そして刀を預かって十年。その間に分かったことは、アルトが神社に訪れると玲嵐が反応する。普段は箱の中に入れて拝殿で保管しているのだが、ひとりでに震えるのだ。まるでアルトを待っていた、と言わんばかりに。
刀の名前を知ったのはつい昨日だ。
紺野匡時という学者先生が警察経由で玲嵐のことを知り、独自に調査をした。そして正体を突き止めたらしい。
「奈良? また唐突だねぇ」
「私も驚きましたよ。偶然ではありましたが」
奈良から戻ってきた足でここに来た彼は、挨拶もそこそこに拝殿に上がった。
刀が入った箱を彼の前に置くと、綿の手袋をした手でそっと取りだす。
黒く艶やかな鞘には細かい花の紋様が描かれている。単純な美術品だったら申し分ない美しさだ。
「あぁ……。やっぱりそうだ。看板に書いてあった特徴と一緒だ」
「この菊の花ですか?」
「そうだよ。これは乱菊と言って、様々な長さの花弁が入り乱れた菊のことを指すんだよ」
「着物の柄で見たことがあります」
蘭花は匡時の手元を一緒に眺めた。
妖刀なんて言われたら怖いが、花が彫ってあるなんて可愛い。実は玲嵐に親近感を持っているのは誰にも明かしていない。
「玲嵐ってどういう意味なんでしょうね」
「玲は玉のように美しいさま、玉がぶつかりあった音の美しさを表しておる。美しさと激しい嵐……。分からんのう」
菖蒲は首をかしげているが、蘭花は玲嵐を見つめた。
(美しいことが嵐のようにたくさんやってきますように、とか? 幕末に作られたなら新しい時代が楽しいものであるように、って願ったのかな)
彼女は匡時に教えられた看板の内容を心の中で反芻していた。
多くの人を殺めた乱菊は許されないことをしたが、愛する人を殺された気持ちには同情する。
蘭花にも歳下の彼氏がいる。大好きな彼がある日突然誰かに手をかけられたら、落ち込むだけでは済まないと思う。
「先生。玲嵐はどうなるんですか?」
「さぁ……。正体が分かったのはいいが、いわくつきの理由が増えてしまったからね。普通の人が持つには重い。警察も渋るだろう。申し訳ないのですが……引き続きこちらで預かっては頂けませんか? 」
「こちらは構わんよ。玲嵐は今までの厄介物に比べたら手がかからん。おとなしくしているものを追い出すことはせん」
菖蒲がうなずいたのに少しホッとした。
警察署で押収品として保管されたら二度と日の目を見ることはなくなるだろう。それならここで預かって、静かに過ごさせてあげたい。
(あなたの持ち主……乱菊さんはもういないけど、ウチでゆっくりするといいよ。でも……アルトちゃんに反応するのはどうして? いつか教えてほしいな)
蘭花は二人に気づかれないよう、玲嵐にほほえみかけた。
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