第16話 鴨川高校 雨乞い

 朝陽が目に眩しい。

 俺は、神泉苑の池で生徒たちと会場の最終準備を確認していた。

 南條が、テキパキと指示を出し、生徒たちが忙しげに動いている。

 どうも天見の顔色の悪いのが気になった俺は、彼女が一人で映像の準備をしているところへ行って声をかける。

「天見、今日は朝早くからご苦労さんだったな」

「いえ、最後の小町さんのところがどうしても気になっちゃって」

 俺は、今朝のトビの様子を伝える。トビは、今朝も高熱は下がらず、なんとか朝から水だけでもとスポイドで飲ませてきた。

「お札も、限界かもしれないって小町さんが……。だから、なんとしても今日の雨乞い、成功させなきゃいけないんです」

 天見は、青白くひどく疲れた顔で、そう言った。

「天見、無理し過ぎだろ?」という俺の言葉に、彼女は無理に笑って答えた。

「今日を絶対成功させなきゃ、今日頑張ればきっとうまくいくから……」

「お前が倒れたら、それもできないだろ。だから無茶しすぎるな」

「今日一日ぐらい大丈夫ですから。それより先生、パンが見つけたんですけど……」

 パンは、昨夜から一晩警戒に当たってくれていたのだが、深夜に不審者が現れたという。それは白装束の男で、池の周りで何やら怪しい動きをしていたらしい。天見が、池の点検をすると、鯉たちが池の真ん中で小石に括られた木札を見つけてくれたという。

「鯉とアヒルさんたちが苦労して岸まで持ってきてくれたんです。その木札を見て、小町さんが、『穢れの呪い札』だって言うんです」

 どうやら、池を穢して儀式の邪魔をしようとしたようだ。

「そんなことができるのは、きっと、あの阿部です。でもしっかり警戒していて正解でした」

「こうなると、最後まで気を抜けないな。俺もできるだけ巡視するよ」

 天見は、うなずき、パンは今も池周辺の監視にあたってくれているという。

「これから雨乞い用の小町さん、描きます。小町さんの晴れ姿、期待しておいてくださいね、とびきり綺麗な小町さんを披露しますから」

「おまえにしかできないとこだ、頼む。ところで、今日は泉さんの方は、大丈夫なのかな?」

「それが、私、携帯忘れて来ちゃって、先生ちょっと携帯貸してもらえませんか?」

 その場で天見は電話をかけたが、泉さんは出ないようだった。

 眉を曇らせる天見を見て、俺はどう慰めたものか焦っているところへ、南條が来てくれた。

「ソラ~! どう、投影はいけそう?」

「うん、ここからならバッチリよ」

 黒いスクリーンを見上げて言う。これは、南條の提案で作った、黒い網戸のスクリーンだ。これも手作り。暗い夜にここへ投影すると、まるで空中に映像が浮かんでいるように見えるというアイデアものだ。

「よし、頼んだよ。雨乞いの締めは、ソラに託したからね」

 天見が小町さんを描いてくると言うのを見送ると、南條が低い声で俺に言った。

「葉山先生、ソラ、どうも昨日の夜からここにいたみたいなんです」

「え、どういうこと?」

 驚く俺に、南條は、今朝のことを教えてくれる。

 天見が、今朝は誰よりも早く、電車もない時間に来ていたからおかしいと思って、問い詰めると、本人が言うには、雨乞いのことが心配で、ここで一晩過ごしたというのだ。雨乞いの儀式の肝心なところは、彼女にしか分からないので、ほとんどを任せてしまっている。昨夜もその準備をしてくれていたのだろうか。さっきのパンの話も、あいつ、一晩パンと警戒してくれていたのかもしれない。

「服も昨日のままだし、顔色もすごく悪くって、もう倒れそうっていうか。でもソラって、心配しても絶対、自分がしんどいとか言わないでしょ」

「トビのこともあるし、あいつどこまでも無理しそうだから、今日は特によく見といてやってくれ、俺も気をつけるよ」

「そうですね。美紅にも話しときます」

 そう言って戻って行く南條も、目の下に濃いくまができていた。

 みんなが、今日のために頑張ってきた。そんな大切な一日だった。今日の雨乞いの成否には、沢山の大事なものがかかっていた。そして、その鍵を握るのが天見、あの華奢な彼女だ。彼女にしかできないものがありすぎた。それだけに、俺は彼女の無理を止めることができずにここまで来てしまっていた。

 準備ができた池をもう一度見渡す。

 水面をさっと風が吹き渡り、漣がたった。この池に龍神様を呼び戻すのだという。いよいよこれからだという今になっても、まだ俺には実感できない。でも、生徒たちの頑張りは本物だ。それは、何よりも確かなことだった。


 昼下がりの八坂神社に集まった鴨高生たちの顔は、みな、興奮で輝いていた。

 境内の熱気がこれから始まる期待で大きく膨らんでいる。堅苦しい挨拶も終わり、いよいよ行列の出発の時を迎えようとしていた。生徒たちは、それぞれ持ち場で、スタンバイOKだ。

 南條、天見をはじめ儀式担当のメンバーは行列を途中まで見送って、池へ向かう予定だ。

「鴨高諸君! 行くぞ!!」

「おおう!!!」

 日野会長の掛け声と共に行列がスタートした。

 先頭は9本の手作りの鉾だ。軽音楽部が奏でる、京の祭、お馴染みの笛・太鼓・鐘の音が響く中、9本の鉾が連なって堂々と進む。

 これは、祇園祭の起源、厄払いの願いをこめて当時の国の数、66本の鉾を立て神泉苑に送ったことにちなんだものだ。

 高く掲げられた鉾は、美術の腕の見せどころ。9クラス、それぞれが個性豊かに作り上げた作品だ。3年生には、鉄から作りあげた力作もある。

 色とりどりに、形も独創的な各クラスの鉾の下には、七夕のようにみんなの願いの短冊をつけた竹笹が飾られている。短冊は、京都中の学校、保育園、そして駅前でみんなから集めた願いだ。中には、千羽鶴のように大きな束になったものも沢山ある。

 五色の短冊が揺れ、笹がサラサラと音を立てる。そんな個性ある九つの鉾が、京の大通りを堂々と進むのを、俺たちは誇らしく見上げた。

 みんなの願いを集めたこの九つの鉾が、この儀式にかける鴨高生たちの思いそのものだ。

 多くの人たちの思いを集めて、この雨乞いを成功させる。そんな決意を持って鉾は進んだ。

 鉾に続いて、行列は1年から順に各クラスが続く。

 まず、我が1年1組「小町の雨乞い歌劇」がやって来た。

 伊山が、麗しい小町に扮し、「雨よ降れ〜」と朗々と歌う。

 クラスの生徒たちが華やかな衣装で手を取りあって歌っている。

 伊山の衣装は、何日も徹夜をしてみんなで仕上げた超派手な現代アート風の十二単だ。背の高い伊山が着た姿は、沿道からも、かっこいいと言う声が聞こえる。

 みんな、飛び切りの笑顔だった。その楽しさは沿道の観客たちにも伝わり、たくさんの人が拍手をしてくれている。

 沿道で手を振る天見たちに、クラスのみんなが笑顔のハートサインを返していた。

 俺は、近くの観客の中に見知った顔を見つけ、その人に声をかける。

 それはスクールソーシャルワーカーの花山先生だった。

 花山先生が、向こうに見える一人の老人のことを教えてくれた。

 老人は、ニコニコとしながら、隣の人に支えられて行列を観覧している。

 あれは柊のお爺さんだという。横にいる人は介護施設の人のようだ。

 そうか、花山さん、柊の方も色々と動いてくれていると聞いていたが、彼の方も行政と繋いでくれたようだった。良かった。

 丁度2組の行列がやって来た。

 2組は、色とりどりの手作り傘を持ってのダンスだ。

 真ん中には、何体かの逆さのてるてる坊主が、懸命に踊っている。

 その一つは、どうやら柊のようだった。

 お爺さんが、嬉しそうに手を挙げていた。

 その後も各クラス渾身の出し物が続く、やはり伝統の劇風の行列が多かったが、他にも、大道芸を披露するもの、集団演舞など、みんなこの暑さをものともせず、踊り、歌っていた。何より、全員が、この時を楽しんでいた。沿道の人たちも巻き込んで、みんなで楽しもうとする姿があり、まさにお祭りだった。

 そして行列の最後を飾るのは、雨乞いの5匹の龍だ。

 縄で編まれた巨大な龍が、運動部の面々の手で勇壮に舞い踊り、太鼓の音が響く。

 この縄編みも大変だった。体育館で夜遅くまで、たくさんの生徒が入れ替わり頑張って作り上げたものだ。相手がお金に糸目をつけない衣装だったのに対し、こちらは、小物一つまで自力で手を尽くしたものだ。生徒たちが夜遅くなるのも厭わず、その一つ一つに思いを込めたものだった。

 賑やかな龍の舞を確かめると、移動だ。俺は儀式班と共に自転車にまたがる。

「さあ、南條、天見、いよいよ雨乞いだ」

「任せてください。できるだけのことは全部やりました。ね、ソラ」

「あとは、やるだけです。みんなで」

「そうだな、よし、行こう」

 俺たちは、神泉苑を目指した。

 

 神泉苑に全ての行列が到着し、九つの鉾を掲げた竹笹が池の周りを囲むように位置につく。

 ここまでのネット勝負は、残念ながら、甲子社の行列と比べても随分差がある。だが、勝負はここからだ。何よりも、雨を降らせる、それができないと。

 雨乞いの儀式、開始を前にして、別の気掛かりもあった。

 天見が、あれからも何度か泉さんに電話しているのだが、泉さんが出ないのだ。

「……大丈夫かな」俺に携帯を返す天見の目は、遠くを見つめていた。

 泉さんのこと、トビのこと、そして、何よりもこれからの雨乞いのこと、天見は、色んな気持ちを、ぐっと抑えて、この儀式を成功させることに集中しようとしていた。それは今にも折れてしまいそうなほどに見えたが、彼女の目の光には迷わないものがあった。

 陽も沈み、宵闇が京の街に降りてくる。

 先週の成功で観客は多い。今回も人出は多く、街の人たちは祭り気分で集まって来てくれていた。

 南條が、配置についたみんなを見渡して、声をあげる。

「さあ、みんな行きます!」合図の手を挙げた。

 篝火に火が入れられ、生徒たちが池の周辺や路上にまで置かれたガラスの器に灯りを入れていく。

 宵闇に浮かび上がるその風景に、観客から感嘆の声が上がった。

 小さな色とりどりのガラス瓶に灯された灯りが、池を囲む。灯りは境内を超えて、御池通りにまで、千近く置かれていた。

 これを、空から見れば、きっと星の川に浮かぶ池のように見えるはず。狭くなってしまった神泉苑に、かつての広大さをイメージさせる、南條の考えた演出だ。

 そんな夕暮れの無数の灯りの中、みんなの歌が始まった。

 池を囲む鴨高生たちは輪になって空を見上げ、声を合わせた。

――ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン♪

「雨降りの歌」をみんなで楽しく歌い踊る。

――ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン♪

 このフレーズを間奏にして、2曲目は「雨に唄えば」だ。

 ここからは、雨にまつわる歌の大合唱。みんなで選んだ雨の歌を、天へ届けとばかりに全校生で歌う。

「さあ、みんな、雨を願って歌おう! 共に歌おう!」

 日野会長が、集まった観客、そしてネットを通じて呼びかけた。

 のってきた生徒たちは踊り出し、見ている観客たちを巻き込んで、歌の輪は、波のように広がっていった。みんなの知っている、たくさんの歌が、波のように繰り返され、声はどんどん大きくなっていった。それは空高く広がり、京都の夜空へ響き渡る。

 みんなで楽しく盛り上がる歌声、これが鴨高の考える、天への祈りだった。

 日野が、大きく呼びかけた。

「難しいことはできないけど、さあ、楽しく明るい心で歌おう。どこまでも明るく、悪い『気』なんて吹き飛ばすんだ」

 2年生たちのソーラン節や、誠吾たちが突然調子に乗ってやりだしたコサックダンスまで、みんなの歌やダンスが、かがり火の照らす池の前で披露される。会場はやがて心を一つにして歌い、その歌声は、みんなの心を震わせた。歓声と掛け声があふれ、たくさんの笑顔が灯火の中で揺れていた。

 歌が終わると、池の周り、クラスごとに高く薪を積み上げられた焚き火台に、火が入れられた。

 バチバチと音を立てて、大きく燃え上がる火の柱が九つ。

 その周りに、鉾を掲げた竹笹と共に各クラスの生徒が集まった。

 燃え盛る炎を囲むみんなの顔が、赤く照らされる。

 各クラスの生徒は、それぞれが手に持った「願いの短冊」を一枚ずつ声も高らかに読み上げると、それを火にくべた。

 一枚一枚、一人ひとりの願いを。

 このやり方にも、生徒会では大いに悩んだ。願いの短冊が集まりすぎたからだ。

 京都中の学校、保育園など、子どもだけでなく、駅前で、そしてネットでも雨乞いに向けた短冊を募集した。すると、集まったのが、なんと20万、特にネットには、全国から多くの、雨乞いの願いが、集まってきたのだ。それだけ、今、不安の中にある人たちが多いという表れだった。中には、感染症や、不穏な世の中を嘆く言葉も多く集まった。その短冊を、一つ一つ読むかどうかで、生徒会で意見が分かれた。

「願い」はそっと燃やすだけでいい、いや今の思いは声にすることが大事と。

「考えてみろよ。先生の長い挨拶、みんな聞いてないだろ。そんなの無理だよ。ネットなんか、すぐに飽きられるぜ」

 野球部キャプテンが強い口調で言う。

「でも、昔から言霊信仰っていうのがあって、声にすることが、大事なんです。一人の声を言葉にすること、そしてそれを誰かに伝えるってことは、遥か大昔から、とても大きな意味が、みんなが思う以上に大きな意味があることなんです」

 天見は、小町さんから、まじないのことを学んでいたので、なんとかその大切さを伝えようと懸命に話した。最後は、日野会長の意見でまとまった。

「みんなの言いたいことはわかった。今回は、私たちらしく、がテーマだろ。らしくっていうのは、一人ひとりを生かすってことだよ。天に届けるのも、私たち一人ひとりの想いを届けることが大切だと思う。だから、ここは多少、時間かかっても、勝負にこだわりすぎたら、これやる意味なくなるよ。20万だろ、うちらは300人、1人、670人分だ。どうだ、結愛?」

「1分10人でいって、1時間ちょっとというところね。まあ、やれないことないと思う」

 そんな議論の末に、みんなでやると決めたことだ。

 ここは時間かかることを承知で始まったのだ。

 黒々とした宵闇の池を囲む各クラス九つの大きな火。その燃え盛る炎を囲んで、生徒たちは、口々に大声で願いを読んで、その短冊を火にくべていく。

 書いてくれた願いを大事に声にしようと、しっかりと読んでいく。

 沢山の声、願いが、声高く響き、それは呪文のように、京の夜空に昇っていく。

 火はその度に炎の粉を高く舞い上げた。

 この時間をなんとか持たそうと、途中から小町さんに登場してもらう。

 読み始めて30分たったら、天見が描いた小町の絵を投影することになっていた。

 池の正面向こう側に準備された、黒い網ネットで作った特製の大スクリーン。

 そこへ投影する美しい十二単の小町さんは、天見に任されていた。

 頼んだぞ、天見、俺は、池の奥の暗がりに一人、待機しているはずの天見の方を見つめていた。


◇◇◇◇◇

「さあ、出番だよ、小町さん」

 ソラは、目の前の絵に向かって声をかける。絵は、このために時間をかけて描いた水彩画版の小町さんだ。

「ええ、昼からの行列、歌、そして、たくさんの民の声。人を思い、世を思う願い。みんな、よくやってくれたわ。ネットというのは、うまく使うと、人の熱をこんなに集めることができるのね、ちょっと驚いたわ。これだけの陽の気、龍王様にもきっと……。我も力の限り、舞い、歌いましょう」

 ソラは、小町さんの絵を丁寧にカメラの前にセットした。

 あとは、映像担当に合図するだけだ。

 みんなが願いを叫んでは火にくべていく。

 映像班は、そんなみんなの炎に照らされた顔をライブカメラにとらえていった。

「雨が降りますように」「このままじゃあ、米が育ちません。神様お願いします。雨を降らせてください」「テルテル坊主逆さにして毎日お祈りしてます。どうか雨を降らせてください」……

 藤村翔、体型がちょっと健康すぎる映像リーダーが、ソラの合図で映写機のカバーを開放し、光が夜に飛び出した。

 スクリーンに小町が投影される。

 鴨高生は、小町の絵を何枚か描いて、それをスライド風にするぐらいに思っていた。

 が、そんなみんなの予想を超える小町さんが現れた。

 静かな音楽と共に、幾つもの灯火に囲まれた黒々とした池の上に、美しい水彩画、極彩色の小町さんが浮かび上がる。

 十二単は燃え上がるような紅のグラデーション。小町さんの姿が、池の水面に反射して鮮やかにきらめいた。

 その長い黒髪の立ち姿に、見る人たちの目を十分ひきつけた次の瞬間、小町さんが、柔らかな風のように動き、舞い始めた。

 それは、風のような舞いだった。

 生徒をはじめ、観客たちから、その美しさに感嘆のため息が漏れる。

 小野小町、本物の雨乞いの舞だ。

 少し離れたところで、こちらが見える藤村くんだけが、「あれっ、なんで動画なの?」と、別の意味で目を丸くしている。これがあるので色々理由をつけて、ソラはわざと少し離れた所に小町さんをセットしていた。

 ――藤村くん、後で、何とかごまかさなくっちゃ。

 ここまでのネットの反応は、心配していたとおり、閲覧数は大きく落ちていた。儀式時の甲子社の半分ほどだ。それが、この小町さんの登場で、みるみる数字が上がっている。

 ――みんな、あと半分だよ。頑張って小町さん!

 ソラは、心の中で、うまくいくことを念じながら、目の前のスクリーンに浮かぶ小町の舞を見上げていた。

 全校生、一人ひとりが、汗をかき、のどをからしながら、願いを天に向かって放ち、火に力を与える。

 そんな池の中心で、小町さんの舞が、たおやかにあたりを満たし、つないでいく。

 短冊を読むみんなの声も終盤になると、苦しそうな様子が増えてきた。

 だが、ついに鴨高生は全員でやりきった。

 全て読み終えられたクラスの竹が、次々と火にくべられ、一際大きなバチバチと竹がはぜる音、やり切った生徒たちの歓声が上がる。

 小町さんは、その間、ずっと踊り続けてくれていたが、さすがに疲れが見えてきたように見えた。

 さあ仕上げだ。

 突然、大きな太鼓の音が鳴り始めた。

 威勢のいい、太鼓の音と共に登場してきたのは、5匹の龍だ。

 しめ縄で作られた五龍が、池の周りに散って行く。5匹の龍は、その長い身を繋げて、池をぐるりと囲む一つの輪となった。

 これで結界の完成だ。

 これは小町さんの教えを受けた、ソラが企画したものだ。

 すでにこの神泉苑の周囲には、小町さんによるお札を、要所、要所に置いてある。

 陽の気が満ちた時、五龍のしめ縄で結界が完成し、龍王様をお迎えする準備が整う。

 ソラは、ここまで苦労して積み上げた陽の気を思った。

 行列で盛り上げた京の街、歌と踊り、そして20万人を超える人たちの、この世界を思う願い、人を思う願いだ。これだけあれば……。

 そう、これで完成するはずだった。

 ……でも、小町さんの様子がおかしい。

 ソラは、舞を続ける小町さんに横から問いかけた。

「どうしたの? 小町さん、あとは、小町さんの雨乞いの歌で完成するんだよ」

「だめ、まだ場が整わないわ。これでは龍王様は降りて来られない。何か変だわ」

「まだ、陽の気が足りないの?」

「いや、それは十分、……池の方よ」

「わかった、すぐ確かめるから、もう少し頑張ってね、小町さん」

 ソラは、スケッチブックの中に待機してもらっていた、池の主様に声をかける。

「鯉さんたちで、もう一度、池の中、おかしなことはないか確かめて。お願い」

 金色の鯉は、すぐさま、池の鯉たちに指示してくれた。近くにいた鯉たちが散っていく。

 ――大丈夫かな、小町さんもそんなに長く持たせられない。せっかく集まった陽の気も、いつまでもつか……。

 あせるけれど、時間はどんどん過ぎる。観客も、この間の長さに待ちくたびれてざわつきだした。もうこれ以上引っ張ることできないか。

 その時、水面に一匹の鯉が顔を出した。

 主様が聞いてくれる。

「水の湧き口に何かあると言っている。どうやらネズミの死骸ようのようだ」

 えっ、ソラはすぐにパンの姿を探した。「まさかパンが……」ソラの全身から血の気がひいていく。

「石に括られていて、それが他の石の下にあるらしい。鯉のわしらでは、どうも動かせないようだ」

 主様がそう教えてくれる。ためらっている暇はなかった。

「すぐ行くわ」

 ソラは、池の中に足を踏み入れた。

 水の湧き口は、前に調べてわかっている。そんなに岸から離れてはいない。ソラは、夜闇の池へ足を取られながら、ジャバジャバと夢中で入っていく。

 数歩で水深は深くなる。

 確かこのあたりだ。いやもう少し先か。水深はぐっと深くなり、すでにソラは、首元まで水につかって、何とか足で探った。

 あった、この石が沢山ある所だ。足で探るだけでは、何もわからなかった。

 時間がない。ソラは思い切って暗い水に頭を沈める。夜の水中は、暗闇の中だ。ソラは身を沈めると両手で水底を探った。石が幾つもある。石の下だと言っていた。

 水の吹き出し口から、水の流れを感じる。一際大きな石があった。その下を両手で探ってみる。

 何かが手に触れた。右手が何か丸い物に、そして左手にあった大きな石に何か柔らかい物が。ぞくりとした……動物? ソラは思いきってそれを引っ張り出そうとした。

 だが、両手でその石を強くつかんだとたん、冷気が全身を貫いた。

 次の瞬間、恐ろしいほどの冷たさで、体中の熱が一気に奪われていく。それでも、ソラは手を離さず、足をふんばって石を持ち上げようとした。

 取れた! そのまま石を抱きかかえるようにして、がむしゃらに水底を蹴った。

 ソラは水面から顔を出した。暗い水の中、咳き込みながらも、とにかく岸を目指して、もがくように足を前へ進める。

 両手で抱える石は、見かけ以上の重さと氷のような冷たさで、体中の熱と力を奪っていく。触れる手が痛くもう感覚もなくなった。夏なのに身体が震えてくる。腕に力が入らなくなって、石を持つ手が徐々に下がってくる。水中で足がもつれ、よろめいた。

 危ない!

 倒れそうになったソラの腕を、暗闇から現れた手が捕まえてくれた。

「早く、こっちだ」

 聞き覚えのあるその声、それは柊くんだった。

 近くで焚き火を囲んでいた彼は、予定の時が過ぎても始まらない池で、何かが起きたのを感じた。それで心配になり、一人見に来てくれていたのだ。

「柊くん、これを結界の外へ、早く!」

 そう言うと、両手で抱えていた石を彼に託した。

「わかった」

 ただ事でない様子を察した彼は、それを受け取ると躊躇せず岸にとって返した。そのまま走って龍のしめ縄をくぐると、その向こうへ石を投げた。ゴロリと転がる石が、篝火に照らされる。

 石には文字が書かれ、縄でネズミの死骸が括られていた。

 闇の中、真っ白なハツカネズミが不気味に横たわっていた。

 

 その時、小町は、結界が整ったのを見た。

 小町には、五龍で囲まれた池から、光の粒子が空へ向かって舞い上がるのが見えた。それは小町にしか見えていないのだろう。

 今こそ。龍王様に声を届けよう。

 小町は、舞を終え、天を仰ぎ見た。

 そして、歌った。

 映像担当の藤村は、あらかじめソラから言われていた。まじないは、人に聞かれてはいけない。小町が最後に歌を歌うときは、音楽のボリュームを上げるよう。

 和楽器の雅な音楽が大きく盛り上がり、小町の歌の言葉は誰にもわからなかった。

 凛とした表情で、天を見上げる小町の口元が、確かに動くのを人々は見つめていた。小町は、歌を歌い終えると、静かにひざまずいた。何かを待つように。

 その刹那、天にいた善女龍王が、舞い降りてきた。

 ソラは、その時、池の中に立ち、空を見上げていた。黒々とした京都の夜空に、何か大いなるものが迫ってくるのを全身で感じた。

 光る生命の奔流が、見上げるソラめがけて降りてくる。それは、金色に輝く龍の姿をしているようにも見えた。その光の塊が、ソラの喉から体を貫いて池になだれ込んだ。

 その瞬間、ドーンと大きな音と共に水柱が立ち、あたり一面に大量の水飛沫となって降り注いだ。

 ソラは、その奔流に巻き込まれ、意識が遠のいていく。

 その一瞬の時の中で、ソラは、生まれてからこれまで出会った全ての人たちが走馬灯のように頭の中を過ぎるのを感じた。そして、それら全ての人たちによって、ソラという存在が形作られていたことに気づく。当然のように、そこには自分の家族もあった……。

 意識が遠のいたソラの体は、背中から水に倒れていった。

 夜空の光と、水しか見えなかった。

 それらが、水に覆われていく。体が水に沈んでいく。

 自分というものを超えて、そのときのソラには、空と水が全てだった。その中に溶けこんでいく。ソラは、倒れながら、このまま自分という個、全てを手放してもいいと思えた。

 その時、ソラの手を誰かが引き留めた。

 強い力で、体が引き上げられる。

 現実に引き戻され、朦朧とする視界にいたのは、柊くんだった。

 ――戻ってきてくれたんだ。

「大丈夫か。おーい、誰か来て!」

 その声に、近くの仲間たちが駆けつけて、ソラは無事に助けられた。

 すぐに意識を取り戻したソラは、慌ててみんなに聞く。

「うわ、雨乞い、どうなった? 大丈夫?」

 心配そうな美紅や朱莉たちの顔がそばにあった。

 美紅が、ほっとした顔で笑いながら言う。

「大丈夫、うまくいったよ。ソラのおかげだよ」

「もう何してんのよ、ソラ。心配したじゃない」

 朱莉は泣きそうな声で抱きついてきた。

「ほんと心配したよ。でもあの水飛沫、なんだったんだ? あれもソラの仕掛け?」

 誠吾が、タオルで頭を拭きながら言う。

「いやいや、私は知らないよ」

 とぼけるソラを、葉山先生は、笑いを堪えるようにして見ていた。

 柊くんは、そんなみんなを輪の外から静かに見ていた。

 結果として、ネットでは、あの突然起きた最後の水柱が何だったかで盛り上がり、「いいね」やコメントの嵐になっていた。この勢いがあれば追いつける可能性も出てきたと、朱莉は言う。

 そのあと、みんなは会場の片付けに入った。

 ソラが、すぐに小町さんの絵を見にいくと、藤村くんが、不思議そうな顔で、ダミーで置いてあったタブレットと、小町さんの抜けた白紙の紙を手に待っていた。

「ソラさ、あのアニメ、いつの間に作ったんだよ。すごいよ、あの技術、今度教えてくれよ」

 最後の水飛沫で、いろんなものが吹き飛んだので、あれを映していた所も何とかごまかせたようだった。

 パンも、ひょっこりと、ソラの元に帰ってきた。ずっと、池の監視をしてくれていたようだった。

 ――パン、本当、心配したんだよ。もしかしたらって、思ったんだから、もう!

 ソラの腕の中で、パンは、「チュッ?」とパンダ目をしばたいた。


◇◇◇◇◇

 夜も遅くなるので、本格的な片付けは明日、朝から行うことになった。

 鴨高の生徒たちは、燦々午後、やりきった満足感で帰っていく。

 ネットの方は、最後の爆発的な盛り上がりで随分挽回したものの、まだまだ甲子社とは大きな差があった。

 俺が、池でまだ残っている生徒がいないか確かめていると、天見がやってきた。

「先生、もう一回、携帯貸してもらっていいですか」

「泉さんか」

「はい、友達にも借りて途中も何度かかけたんですけど、全然だめで」

 天見は泉さんに電話をかけた。

 長い間のあと、「もしもし、どなた?」という声が、こちらまで響く。

「あ、泉さん、大丈夫?」

 俺は、天見が泉さんと話しているのを見ていた。どうやら、大丈夫なようだ。高熱でずっと動けなかったところへ、近所の人がやってきて、世話をしてもらっていたらしい。

 熱で朦朧として眠り続けていた泉さんは、天見の夢を見ていたという。

「お前が龍のような雲に乗ってる夢を見たよ。そしたら、この電話で目が覚めたんだ。不思議だったね、あれだけしんどかったのも、随分楽になったよ。お前の声を聞いたからかね。ありがとソラ」

 泉さんは、そんなことを言った。家には近所の人がいてくれるし、熱の方も少し下がり出しているから、心配いらないよと、泉さんは、逆に応援に行けなかったことを詫びていた。

「またおいで」泉さんが最後にそう言って電話は切れた。天見はほっとした顔で、携帯を返す。

「良かったな。……ところで天見、お前は大丈夫か」 

「はい、さっきはすみませんでした。先生までずぶ濡れにしちゃって」

「いや、そっちじゃなくて、お前、今日は家の方は大丈夫なのか」

 途端に彼女の表情が変わる。

「お前、昨夜、どうしたんだ? 家で何かあったんじゃないのか」

 天見はグッと何かを噛み締めるように俯いていた。俺は、彼女が話をするのをじっと待った。

 やがて彼女は、言葉を探しながらゆっくりと家のことを話し出した。

「実は、私、昨日、家を飛び出して来ちゃったんです」

 天見は、母親が学校を辞めさせると毎日のように言うのだと言った。それは夏休み、対抗戦の頃からで、ことあるごとにそう言われ、ついに昨日、これまでにない強さで迫られた。それでどうしようもなく、家を飛び出したのだという。

「考えたら、私、これまでこんなことなかったんです。この前、帰れなかったみたいに、動けなくなることはあっても、自分から、母さんから逃げ出したこと……」

 今日は俺が家までついて行こうかと言ったが、彼女は首を振った。

 俺は、しばらく考えた後、家から離れることを真剣に考えてみることもできるんじゃないかと言った。それなら、花山さんに相談して、緊急避難で施設に行くこともできるし、場合によったら、泉さんを頼ってもいい。俺が説明してやるからと話した。

「お前ももう高校生だ。一人の人として、家を離れてみるっていうのは、いつだってできることなんだぞ」

 そういう俺の言葉を、彼女はじっと聞きながら池を見ていた。

「先生、ありがとう。……でも私、今日は帰ります」

 驚く俺の方をしっかり見て天見は言った。

「私、やっぱりあの家にいたいんだと思います。先生と話してて、やっぱり今はあの家にいることが、私の望みなんだって分かった気がする。何でだろ、今このまま離れても自分の体と心は、きっとあの家から出ることはできないっていうか、そういうの、まだ想像もできないんです。

 怖いって言うのが正しいかもしれません。先生、もう少し時間をください。先生が私のこと一生懸命に考えてくれているのはわかるから、私もこれから真剣に考えてみます」

「そうか、……今はそうなのかもしれないな。なんか、分かってないのに言い過ぎた。すまん。でも、いつでもなんかあったら連絡してこいよ」

「はい、花山先生にも電話、教えてもらってるから、大丈夫です。もう昨日みたいなことはしません。なんたって、私、雨乞い、やり遂げましたから」

 顔をあげた天見の瞳は、澄んだ色をしていた。 

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