音楽の街へ

第12話 糸の先の美男子

 秋の午後、エトワール広場では職人やアーティストたちの活気が漂っていた。メリーの工房で飴細工を仕上げていたセシルが、ようやく一息ついて広場を歩き始めたのも束の間。背後から、やたらに情熱的な声が響いてきた。


「あなた!そこの美しい人!止まってくれ!」


 セシルが振り返ると、やせ型の中年の男が、筆を手に興奮した表情で駆け寄ってきた。その男は派手なスカーフを首に巻き、くたびれた画板を抱えている。顔中に絵具の跡をつけたその様子は、まさに流浪の画家そのものだった。


「君を見た瞬間、私の中で新たな創作の炎が燃え上がった!ぜひ、モデルになってくれ!」

 セシルは戸惑いの表情を隠せず、一歩後ずさる。


「いや、僕はモデルの仕事はしていなくてね。それに、他にもっとふさわしい人がいるんじゃないか?」

 冷静に断ろうとするセシルだったが、画家の目は獲物を逃すまいとギラギラと輝いている。


「いいや、君しかいない!その端正な顔立ち、その洗練された佇まい、まさに私が追い求めていた『理想の人形』そのものだ!」

 セシルは一瞬耳を疑った。「人形…?」


 画家はすかさず、手に持っていたスケッチブックを開き、そこに描かれた奇妙なイラストをセシルに見せた。それは、糸で吊られたマリオネットのように腕を曲げ、首を不自然な角度で傾けた男性の姿だった。


「君にはこのポーズをとってほしい!糸で吊られたようにね。そして、このガラスケースの中に収まる設定だ。壊れそうで壊れない、完璧な美しさを表現できるのは君しかいない!」

 画家の言葉は熱を帯びているが、その内容はあまりにも突飛だった。


 セシルは言葉を失い、曖昧な笑顔を浮かべながら後ずさった。「それは…ちょっと僕には無理だと思う。体をそんなに曲げたら怪我をしてしまうかもしれないし…」

「大丈夫!この特別な椅子を使えば、完璧に再現できるんだ!」画家はカバンから組み立て式の奇妙な椅子を取り出し、セシルの目の前で広げ始めた。


 通りすがりのメリーがこの光景を目にして、状況を察したのか、笑いをこらえきれない表情で近づいてきた。「セシル、どうしたの?ずいぶん賑やかだけど。」


「助けてくれないか、メリー。この人、僕をマリオネットにしようとしているんだ。」

 メリーは画家のスケッチブックを覗き込み、その突飛な構図に目を丸くした。だが、次の瞬間には堪えきれず吹き出してしまった。


「ごめんなさいセシル、これはさすがにちょっと面白いわね。」

「君が笑っている場合じゃないんだ。」セシルは真剣な顔で反論したが、メリーの笑いにつられて、肩の力が抜けてしまった。


 一方で、画家は真剣そのもので、再びセシルに向き直る。「君は理解していない!この作品が完成すれば、世界が震撼する美術の革新になるんだ!ぜひ協力を!」

 その情熱に負けそうになるセシルだったが、メリーが助け舟を出した。「でも、ポーズをとるには準備が必要ですよね。それなら、一度スケッチだけでも描いてみてはどうでしょう?」


 画家は少し考え込んだあと、深く頷いた。「なるほど、まずはスケッチだな。では、君、そこに立って!」

 セシルは仕方なくその場で姿勢を正し、スケッチが始まった。画家が集中する中、メリーはそっとセシルに耳打ちする。「あとで飴細工を作るから、これで機嫌を直してね。」


 セシルは小さくため息をつきながら、遠くの秋空を見上げた。この街で平穏な日々を過ごすには、まだまだハードルが高そうだと感じながら。



 画家のスケッチがひと段落し、セシルがほっと息をつく間もなく、画家はさらに要求をエスカレートさせてきた。「スケッチだけでは限界がある!やはり実際にそのポーズをとってもらわねば、この美を完全に捉えきることはできない!」


 セシルは思わず顔をしかめた。「あの…僕も仕事があるので、これ以上は難しいかと…」

 だが画家は全く引き下がる様子がない。「いやいや、君こそがこの作品の中心だ。君がいなければ、この構想自体が崩れてしまう!」


 その言葉にメリーが口を挟んだ。「でも、セシルも忙しいですしね。じゃあ、今度はセシルの彫刻展のモデルになったらどうです?そのときに彼が空いていれば協力できるかも。」

 セシルは驚いた顔を向けたが、メリーはあえて気にせず笑顔を浮かべている。「だって、セシルだってアーティストだもの。一方的に振り回されるだけじゃ不公平でしょ?」


 画家は一瞬考え込んだが、すぐに目を輝かせた。「なるほど!君が彫刻家とは知らなかった。では、次の展示会で私が観に行き、そこで再び交渉するとしよう!」

 セシルは困惑しながらも、なんとかその提案で画家を納得させることができた。


 その日の夕方、メリーの工房で休憩していたセシルは、飴細工を並べるメリーを見て小さく笑った。「君のおかげで助かったけど、僕の展示会のときにあの画家が来たら、また面倒なことになりそうだ。」

 メリーはくすくす笑いながら、できたばかりの飴をセシルに差し出した。「それも楽しみのひとつってことで。ほら、甘いものでも食べて元気出して。」


 セシルは渡された飴を手に取り、じっと見つめた後、思わず微笑んだ。「こんなに甘い飴なら、面倒ごともちょっとくらい気にならなくなるかもね。」


 その夜、秋の風が工房の外をそっと通り過ぎていった。

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