4章

第18話

 何かの吠え声が、宵闇の奥から響く。山に住む陸竜か、或いは翼竜か。炎があるから大丈夫だろうと、シアンは小枝を片手に空を見上げた。


 夜を照らす、月と無数の星明かり。ほんの少し空に近付いただけで星空が一層瞬いて見えるのは、信仰の場に近い独特の空気が影響しているのだろうか。或いは単に、山地で空気が澄んでいるだけかもしれない。ともあれシアンには、かつて見上げたものより、どこか輝きを増して見えるのだった。


「腕の具合はどうだ」


 声をかけられ、視線をラグへゆっくりと動かす。火の番を交代するには、まだ少し早い。こちらの身を案じて、早めに声をかけてくれたのだろう。騎士団長ともなれば、傷の処置も手慣れているのか。適切な手当てをしてくれたのを改めて感謝すると、気にするなという風に、首を横に振られた。


「後は私に任せ、君は休むといい。……と言っても、そのつもりはないのだろうが」


 隣に腰を下ろし、ラグはこちらを見つめてきた。彼の眼差しは、ユーフェよりも眩い。全てを暴き焦がそうとする、炎の如き苛烈さを秘めている。


 君の能力については聞いた、と彼は前置きをしてから切り出した。


「君は、睡眠中も付近の生物の身体を使い、偵察を行っているな。日中にうたた寝をしていた時もそうしていたのだろう」


 鋭い、と思った。あの夜、陸竜の接近に気付いたのがユーフェでなくシアンだった時点で、彼はある程度こちらに注意を払っていたのかもしれない。


「原理を詳しくは知らないが、その力に対価がないとは思えん。常に監視の目を張り巡らせようとするなど、心が摩耗し、疲弊するぞ」

「身体は休めているから、大丈夫よ。それに、これは習慣みたいなものだから。今更どうとも思わないわ」


 そう返してから、ユーフェに言われた内容を思い出す。どうでもいいふりをし続けたら、本当にどうでもよくなってしまう。この習慣が始まった頃も、自分は負担を一切感じなかっただろうか、と。


 思考に耽りそうになっている話し相手を前に、ラグは居住まいを正した。真正面から瞳を覗き込み、彼はおもむろに提案してきた。


「君、私の養子にならないか」

「え……妻じゃなくて?」

「勿論妻でも大歓迎だ」

「お断りします」


 だろうな、と彼は肩を落としつつ、薄く笑った。どうやらまだ、完全には諦めてないらしい。それはそれとして、突然の申し出に戸惑う。

「どうして私なの?」

「君の身を案じているからだ。それ以外に理由があると? ……ああ、その力を利用する気はないから安心してくれ」


 ラグは遅れて付け足した。わざとらしさは、感じない。本心からの心配なのだろう。どうやら彼は、随分と善良でお節介らしい。公爵に使われていた娘を、ただ庇護しようとするのだから。


「君はなんというか、危うい。正しい導き手や、心を休められる場所が必要に見える。私なら、全て与えてやれる。首の装飾品も、必ずや解除してみせよう」


 流石、自国では一定の地位を得ているだけあるというべきか、随分自信満々に宣言してきた。実際、竜人は人間よりも強靭で長生きだ。小娘ひとりを護るなど、造作もないのだろう。チョーカーをなぞり、そんな事を思った。ありがたい申し出に、柔らかな笑顔を浮かべる。


「そして、今度は貴方の国で利用されるのね」


 その切り返しに、ラグは目を見開いた。心外だったのだろう、そうはさせない、と力強く反論する男へ、緩く首を振ってみせる。


「貴方が善良でも、貴方の王様は、仲間は? いつか、私の力を嗅ぎ付ける誰かが、必ず現れるわ」


 自分の力は、権力者にとって便利すぎるのだ。普通に暮らしていても、どこで暴露するか分かったものではない。何処にも留まらずにいるのが、結局一番安全なのだ。


「私はただ、自由でいたいだけなの」


 小さくもはっきりとした声音で告げる。断られたというのに、ラグは目を細め穏やかな表情となった。


「最初の頃とは、少し変わったな」

「そうかな。……ユーフェのお陰なのかも」


 はにかむように笑うのを、彼はじっと観察していた。風と何かの唸る声、木々の燃える音だけがしばし空気に充満する。再びラグが口を開いた時、表情は険しいものとなっていた。


「もう一つ、伝えておくことがある。白竜族には、気を付けろ」


 火の粉がふわりと舞い、すぐさま掻き消える。金の眼がそれを目で追い、その向こうで静かな吐息を立てて眠っているであろう同族を睨んだ。


「白竜族は、起源の探究、及び月への到達を使命としている。困難極まる空の果てへの飛行を実現させるため、かつて多くの同胞を手にかけてきた」


 それは、白竜族の歴史の一部だった。同族同士であろうと交流が殆ど途絶えているというのに、なおも語り続けられている、警句であった。


「使命の為に最も同族を利用し、素材として防具に活用してきた一族。故に彼らは、同族剥ぎの汚名を持つ。そして、素材として劣る人間には否定的だったと伝え聞いている」


 ユーフェが白竜族であると知った時の、ラグの表情を思い出す。あれには、まぎれもない嫌悪が含まれていた。


 もし、昔と内情が同じままだったとしたら。同族の集落を目指すというのに、どこか暗い顔をしていたユーフェも、同じ懸念を抱いているのではないか。


「もうずっと昔の話なんでしょう。変化しているかもしれないわ」

「楽観視はできん。それほどに、私達にとって掟は重い意味を持つ」


 人間の子供よりずっと長く生きてきた竜人は、果てにある星の光を視界に映した。届かない程に遠くで、いつまでも光り続けているそれを。


「生存のためだけに生きるには、私達の人生はあまりに長い。掟や使命は、ともすれば虚無に陥りかねない同胞を導く、道しるべの意味も持つ」

「ラグも、そうなの?」

「否定はしない。黒炎族は、竜人という種族の存続が使命だったからな。集落を出たとはいえ、掟に縛られた思考だと我ながら呆れる事もある」


 やけに熱心に妻を得ようとする男は、片頬を釣り上げて自嘲した。彼らにとって、掟は芯に深く根付いているのだ。自由になれない。そう明かしていたユーフェも、やはり過去に、使命に囚われている。ならば、数百年以上魂に刻まれ続けた掟を頼りに生きる、竜人の集落に向かうのは、どういう意味を持つのか。


 警告が重々しく圧し掛かる。頭上の月は、ただ無言で冷ややかな光を大地に浴びせていた。

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