第17話

「公爵様は寛大にも、貴様を再び迎え入れる心積もりだ。ただし、五体が満足な状態で、とは言い含められていない」


 予告もなしに、刃が皮膚をなぞる。腕から吹きこぼれる血と痛みで、シアンは顔をしかめた。


 人並みの慈悲を持ち得ながらも、恩のある公爵の為ならば全てを躊躇なく捧げられる。だからこそ、彼は主人に手厚く信頼されているのだ。


「裏切りに何の咎めもなしでは、示しがつかん。腕か、足か、眼球。死ななければ、どの箇所でもいい。持続的な苦痛であれば、貴様にとっても罰となろう」


 リガルドは、実に優秀であった。どうすればシアンを効率的に痛めつけられるか、理解している。それは確かに嫌だな、と思った。感情が鈍くとも無痛ではない。四肢や五感の一部を奪われれば、また逃亡を企んでも、それが困難になる。合理的な判断だと、シアンはやはり他人事のような感想を抱いた。


 とはいえ、今感じている腕の痛み以上のものを与えられるのは、辛い。いっそどうにか頑張って、今すぐ死ねないだろうか、と思った。


 死んでしまえば、それ以上の痛みはない。本当に、自由になれる。そんな考えは、上司にはお見通しだったのだろう。顎を掴まれ、舌を噛まないように固定される。この先を察し、幾人かの兵士が目を逸らした。今からの処罰は、見せしめの意味もあるのだろう。


 凶器が振り上げられるのを、押さえつけられた状態で仰ぎ見る。いともたやすく肉を断つ刃が、西日に鈍く照らされる。血の滲んだような光を放つ斜陽を、大きな影が覆い隠した。


「やっめろお―!」


 素早く飛び去ってゆく、大きな黒い影。それよりも一回り小さな白い身体が、叫び声と共に落下してきた。リガルドは素早く反応し、大きく飛び退く。空いたそこへべしゃりと地面に腹ばいになり、格好決まらず着地したのは、幸いにも舞い上がった砂埃で覆い隠された。ゴーグルで目を保護した竜が、ぐううと呻く。


「やっぱり、滑空も無理か……」

「……ユーフェ?」


 どうして、と訊ねようとして、続きの言葉が出なかった。伝えたい事が多すぎて、胸が詰まっていたから。


 キラキラと輝く金の瞳が、怒りと喜びと心配の混ざった色で見つめてきた。きっと彼も自分に伝えたい事が沢山あるのだ、と手に取るように伝わってきた。


「り、竜人の襲撃です!」

「私の読み通りだ! 魔術師兵よ、術を放て!」


 騒然となった周囲。喚き声が指示を飛ばし、様々な光線が放たれる。それら全てを、鬱陶しいなとぼやいて無視し、ユーフェは尻尾を薙ぎ払った。無言で飛び掛かろうとしていたリガルドが、舌打ちをして遠のく。


 白竜族は、どうやら魔術に対しても耐性が高いらしい。とはいえ、このままではじきに捕まる。ユーフェは顔を寄せ、素早く述べた。


「シアン、逃げるぞ」

「え……、でも、どうやって」

「僕を使え」


 シアンは返答を忘れ、ぱちぱちと瞬きをする。ユーフェを使う。彼の身体を操れと提案しているのだと、遅れて気付いた。


「鳥だっていけるんだから、お前なら、この身体も上手く飛ばせられるだろ」

「無理よ、また弾かれちゃうもの」

「今度こそ大丈夫だ。お前位、簡単に受け入れてやるさ」

「でも──」

「僕を信じろ!」


 今までのどんな言葉よりも、それは鋭く身体を貫いた。他者が自分をどう警戒しているか、どんな思惑を抱いているか。そういう事ばかり、ずっと気にしていた。


 自分は誰かを、信じた事があっただろうか。

 自分は彼を、どう信じたらいいのだろうか。


 答えを持たないはずなのに、心はやけにするりと、その提案を飲み込んだ。或いは、ずっと前からそのやり方を、知っていたかのように。


 小さく頷き、身体から力を抜く。この力が特別な魔術だからだろうか。意識を手離すのは、昔から簡単にできた。自分の身体から離れ、魂だけで動き、別の身体に入り込む。他の魔術師達が不可解そうに解釈する動作を、息をするように自然とこなす。


 強靭で、大きな竜の身体。その奥底に触れてすぐに、跳ね除けられそうになった。寸前でどうにか反発が止まり、その隙に自分を滲みこませる。普段は、全体を強引に掌握するような感覚で操っていた。過去の経験と比べると、どうにも奇妙な感覚だった。小さな波に流されそうになるのを、何度も堪える。身体の芯に彼がいると、強く実感する。受け入れられている。彼の神経に添って、促すように動く。できると確信した。


 翼を大きく広げる。捕縛の術など、恐れるに足りない。ただ、目指す場所へ向かえばいいのだ。


「シアン・カネージュ!」


 その名を呼んだのは、狂ったように杖を振り乱している魔術師ではなかった。首を動かしてみれば、射殺さんばかりにねめつける視線があった。喉元へ、サーベルが突き立てられる。はっと驚いて憑依が解けかけるものの、銀の鱗には一筋の傷も生まれなかった。


 肉薄した男が、唸るように呟いた。


「死にに行く気か」


 それはどこか、こちらを案じるような台詞に聞こえた。シアンは否定も肯定もしなかった。代わりに最初の時に告げられなかった言葉を、竜の口から差し出した。


「今までありがとうございました」


 軽く頭を下げ、振り払う。急いで自分の身体を咥えると、今度こそ翼に力を入れた。地面を離れる後ろ足。罵声をすり抜け、翼を羽ばたかせる。真っ青になった老人の姿が、苦々しげに睨む男の顔が見る見るうちに小さくなり、あっという間に視界から消えた。


 強風に乗り、山脈を一つ飛び過ぎる。ようやっと、国境を越えたのだ。


『うわ、本当に飛んでる! 久しぶりだ!』


 脳裏で元気な喜びの声が響き、翼の動きが乱れる。普段と違い、身体の持ち主の意識が強く残っているから、簡単に影響を受けてしまうのだ。落ち着いてと声をかけたかったけれど、意識のない自分の身体を咥えているから、そうもいかない。バランスを崩し、なんとか持ち直し、辛うじて墜落を防いでいると、夕闇よりも黒い体躯が眼前を横切った。見知らぬ黒い竜の正体を、瞬時に悟る。ラグに先導されて、シアン達は人気のない荒れ地へどうにか着地したのだった。



***



「馬鹿じゃないのか」


 安全な場所で腰を落ち着け、情報交換を終えてのち。シアンは早速、ユーフェに怒られた。


「こっちが頼んでないのに、勝手なことするなよ。あんな高い所から落とすとか、平気だろうって分かっていても酷いだろ」

「あそこまでしないと、諦めてくれないと思って」

「あそこまでしても、諦めるもんか」


 ふん、と強めに言い返され、項垂れる。実際その通りだった。まさか、敵の本拠地に堂々と落下してくるとは思わなかった。


「お前、弱いのに色々と雑過ぎるんだよ。だから簡単に怪我するんだ」

「雑で行き当たりばったりの、運任せな救出計画を立てた君が言う事か。単なる同族の縁を装い、君だけを救出して逃げ去る羽目にならずにすんだからよかったものを」

「うまくいったんだからいいだろ! 大体、それができるならシアンも助けろよ!」

「立場上、恣意的に公爵の部下を攫うわけにはいかんからな。それに私ばかりを当てにするのもどうかと思うが」


 腕に包帯を巻いてくれながら、ジグが指摘する。ユーフェはひとしきり彼と言い合ってから、落ち着かなげに視線を彷徨わせ、こちらを視界の端に映してきた。


「危ないことをするなら、僕を頼れよ。お前より考えるのは苦手だけど、僕は頑丈なんだから。協力すれば、もっとうまくいくだろ」

「……ユーフェと、協力?」

「そうだよ。一緒に頑張ればいいんだ。だから、もうひとりで勝手に、……どこかに行こうとするなよ」


 発言はどんどん小さくなり、最後はぼそぼそと大変聞き取り辛かった。明かされた本音を前に、シアンもつられて視線をうろうろと動かし、どうにかうんと頷いた。それだけのことが、やけに気恥ずかしかったのだ。二人のやり取りを見て、包帯を巻き終えた男がやれやれと息をついた。


「もっと素直になれないのか、君は。女性には誠実に、かつ正直に心のうちを伝える方が得策だぞ」

「うるさい!」


 二人の仲が微妙なのは、相変わらずらしい。アドバイスをしてくる外野にユーフェはそっぽを向いた。そのくせ、血が滲む腕へちらちらと視線を送ってくる。心配しているのが、とても分かりやすかった。大丈夫だと伝えると、ほっとしたのか視線が和らぐ。


「飛んでいけるようになった事だし、目的地まですぐ到着できそうね」

「まだ飛び慣れてないだろ。それにお前は怪我してるし、もし竜の姿を誰かに見られたら大変だ」


 シアンの言葉に、何故かむすっとしたユーフェが、慎重策を推してきた。国境を越えた以上、公爵の追っ手は恐らくもうこないだろうが、竜人が人の目を避けているのは変わらない。今が女神信仰者達の参拝の時期から外れているとはいえ、人里離れた山脈内だろうと警戒すべき、という事だろう。もう暫くは徒歩の旅になりそうだ。


 旅の終わりが長引いたのを少しほっとしている自分に気付いて、シアンは不思議に思った。


「それにどうせ、山頂に向かう前に、別の所に寄る予定だからな。丁度いいさ」

「別の所?」


 ああ、とユーフェは頷き、地図を取り出す。それは、シアンが見たことのない、この山脈について、幾つか書き記されているものだった。


「白竜族の集落に行くぞ」


 そう告げる彼の横顔に、夜闇の影が差し込んだ。


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