第24話

「うん、そうか。なら今から一時間は大丈夫そうか? よし、そのまま見張ってろ」


 正之が耳にあてていた携帯を下げて、勝ち誇ったように笑う。


「呑気に国道の本屋で立ち読みだとさ。今から何を失うかも知らずに」


「国道の本屋だったら、ここでのキャンプファイヤーが見えるかもしれないね」


「そうだな。着火したら教えてやるか? 今すぐ戻ってくれば消し止めることができるかもしれないって」


「名案だよ、正之くん。目の前で為す術なく失われていくのは、きっとあいつに自分の無力さを実感させる良い機会になるよ」


 自分達のアイディアに正之とトコロテンが笑いあう。その最中でも、正之の探るような視線が賀来を監視していた。

 賀来はハルの家を見ていた。

 家の屋根はあの日とはもう違う色をしている。柵も今ではブロック塀にかわり、鉢植えが吊るされることもない。平屋は相変わらず平屋だが、人気はなかった。

 ハルの父親は出張で家を空けることがほとんどで、ハルが居なければこの家に灯がともることはない。ブロック塀の前にはバイクやスクーターがいくつも駐められて、玄関は開け放たれ賊の侵入を許していた。


「よう、準備できたぜ」


 ポリタンクを手にした松井が外門から現われる。賀来を見つけると、足もとにポリタンクを放ってきた。中に残っていたわずかな液体がアスファルトにしみ出す。仄かなピンク色を帯びていた。


「ぱっと燃えるだろうよ、テメェ等のガソリン臭い思い出も」


 松井の仲間達から野卑な笑い声があがる。

 賀来は何も言わなかった。

 ただ、あの日から色んなものが無くなったのだと、改めてハルの家を見つめながら思う。

 そして今からまた失うのだと。


「行くぞ。着火式だ」


 陽が沈み、太平洋はスミレ色に静まっている。

 松井達が肩を組み、「オーレー、オレオレオレー」と歌いながら揺れている。「頑張れ、頑張れ、隼人」「おーせ、おせおせ隼人」と茶化す連中もいた。


(ガソリンってのは匂うな)


 ブランコの周りには空になったポリタンクがいくつも転がっている。ブランコはガソリンをかけられて、黒く湿っていた。

 何度も修理したから、あの日と同じではない。

 だけど、あの日と同じ物もある。

 賀来は渡された安物のジッポをいつまでも手の中で握っていた。


「どうしたんだ? 走馬燈の再生で忙しいのか?」


 正之の声が後ろから聞こえる。


「もしここで逃げるのなら、僕達の仲間ってわけにはいかなくなるね」


 トコロテンの声も聞こえた。


「さっさとそのガソリン臭いゴミを燃やせ。お前がやらなくとも誰かがやるんだぞ? 志願兵ないくらでもいる。ただ僕はお前と今後も仲良くやっていきたいと思っている」


「正之くんの友情に誓いを示すんだ」


 やーれ、やーれ、と外野の声も大きくなっている。

 それでも賀来は動けないでいた。

 太平洋が見える。

 町が見下ろせる。

 あの日、この場所からなら何処へでも行ける気がした。

 この町からも、母親のいなくなった家からも、何もかもから自由になれる気がした。ハルと一緒なら自由になれる気がした。


(本当にここまでしなくちゃいけないのか)


 賀来は隣にいないハルに尋ねた。答えは返ってこない。


「おい! いい加減にしやがれ!」


「感傷なげーよ」


「白けるだろ、バーカ」


 賀来の動きがないことに、囃子が罵倒に変わっていく。


「やらないつもりか? いいのか? 僕を裏切るなら未来はないぞ」


「君ももう少し賢くなるべきだと思うな」


 正之とトコロテンの声。


「おい! 僕にも貸せ!」


 ついに正之が怒鳴り、松井達の中からジッポライターを取りあげた。隣に並び、火を灯す。


「最後の十秒だ。十秒後、僕はこれを投げる。僕の炎があのゴミを焼けば、わかってるな? お前の未来もあのゴミと同時に焼き払われることになるぞ」


「…………」


「10、9、……」


 カウントが始まり、それにあわせて周りも声を揃え、手を叩きだす。

 賀来は最後の別れを心のなかで唱えた。唱えれば唱えるほど、最後が最後を呼んで、体を突きあげてくるような悲しさがある。むせかえるような、切なさがあった。

 このブランコを焼いて、何が残るだろう。

 生き残った自分の未来に、あの日々よりも美しいものはあるのだろうか。


「3、2、1!」


 カウントが進んでいく。

 賀来は腕を振り上げた。


『最強の相棒なんだ』


「…………」


「根性なしのクズめ」


 正之の声が聞こえ、ライターがとんでいく。


「燃え尽くされるのを指をくわえて見ていろ、お前の未来も、何もかもが灰になるのを」


 ■


「おいやばいぞ! 近所のやつが警察呼びやがった!」


「ズラからろうぜ!」


 周りが慌ただしく退散していくなか、賀来は顔面を焼かれるような熱を受けながら、ブランコが炎のなかで黒い影になって揺らめくのを見つめていた。


「賀来」


 正之達が逃げ去り、サイレンがいよいよ間近に迫った頃、背後で声が聞こえた。


「やぁ」


 賀来は振り返らずに答える。


「間に合わなかったね、ハルくん。もうここには何もないよ」


 ハルは答えず隣に並び、炎に包まれたブランコを見つめた。その横顔はいつもと変わるところがなかった。賀来の胸に、苦しさのなかに一人置き去られたような寂しさと、怒りが滲んだ。


「やっぱりこれも計画通りってわけ」


「当然だ」


 ハルが炎で照らされながら呟く。


「お前は相変わらず甘いな」


「だったら僕が燃やせば満足だったのか? 僕にそれをさせるつもりだったのか」


「そんなことはお前にはできん。わかっていたさ」


「何でもわかってるんだ、ハルくんは。それでどんな気持ちさ。予定通りこれが燃やされて、言うことなしかい」


「ああ言うことなしだ」


 その時、賀来は見つけた。

 ハルの拳が震えている。

 あまりにも強く握りしめられているので、爪が掌に食い込む音が聞こえてきそうだった。

 ハルの横顔はいつもと変わりはない。

 炎を睨み、口は真一文字に締められている。

 賀来は一瞬湧き起こった寂しさと怒りが、突きあげるような悲しさで崩されていくのを感じた。涙が、止まらなかった。


「お前は甘ちゃんで非情に徹しきれない。俺は非力でこいつを差し出すしかなかった。だが、それでいいんだ。これで準備は整った」


 悲しかったのは、ハルという少年の姿だった。

 ハルは自分の弱さを許しはしない。皆から蹴られても立ち上がり続けた。母親が居なくなったあの日も歯を食いしばり、睨んでいた。

 涙はハルのなかで焼き払われる。悲鳴は縊り殺される。

 そうやって弱さを握りつぶして戦い続ける姿が、悲しくて仕方なかった。

 自分が気づいてやらなければ、誰がこの少年の悲しさを知るのだろう。誰が震える拳を見つけてやれるというのか。


「ハルくん、ごめんよ、ごめん」


 賀来は口のなかに流れ込む涙を噛みつぶしながら伝え、前を向いた。炎が二人を焦がす。ハルの隣に立つのなら、泣いて終わりになどできない。


「賀来、俺たちは勝つぞ」


「ああ」


「作戦開始だ」

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