あの頃~望郷~

あの頃の故郷を思い出して知らぬ街角をゆらり歩く。私の居場所はここではない。思い出の影ばかりを追いかけて、トタン屋根に打ちつける陽光に目を閉じる。私はあのころに戻りたくてまたこの道を辿る。もうこの道は私の知らない新しい道、子供の頃の匂いはとうに忘れてしまった。背格好ばかり大きくなって心は未だに駄菓子屋のベンチであくびをしている。街は夕日に燃えている。陳腐な言葉ばかり並べて大人になった気で、長く続く道を歩いていく。


苔むした石垣に伸びる影ばかりを追いかけている。望郷の影がここまで伸びてきている。私はほろり、涙を流す。


あなたがみているのは私の抜け殻、私は自意識を内に隠してあなたの愛を受け止める。


ポケットに入れた鍵は、どこのものか、いつのものかも忘れてしまった物置の鍵。あの頃の思い出をしまい込んでいるどこかの鍵。


あの頃の私は伸びる竹を自分にうつして、長くなっていく影を見ていた。もう長くなったのは髭ばかりで一日は短く、思い出の日々は既に遠くなって老いた竹の列に混じってわからなくなっている。


遠くなった日を悲しめどオルゴールのゼンマイのように巻いて戻す事はできない。戻らない日々に私は後悔という足跡をつけて歩く。


切れども切れども若竹の列は伸びていく。私の人生はこれらを切ることの繰り返し。


光る記憶の中を泳いでいく、アルバムを開いては思い出たちがペリペリと色褪せていくことを覚える。弾力の無い心では受け止めきれずただ、興味の無い広告を見た時と同じ感情だけ動く。


夏の縁側に座り、黒い土だけになった庭を見ている。あの子たちがいた頃は芝が青青と茂り、柔らかな微笑を讃えていた。今はもう小石と土ばかり。もうあの子たちは私の手を離れ、早足で過ぎ去り思い出になってしまった。アルバムをめくる手が不意に早くなり込み上げてくるものがある。晴れ着の二人を見て、ああもう私のものでは無いのだな。とふと曇り空を見る。


記憶の端々に映るガラス玉のような光を見ている。その総称を思い出と言うことをもう私は知っている。


移りゆく日々はあんなに長く急だった坂道を短く緩やかにする。あんなに広かった運動場をこんなにも狭くする。私は一人五フィートの高さから小さくこじんまりとしてしまった生家を見る。


人波の流れる往来にて暖かな似た顔を見つけて声を掛ける。だけどもそれは全くの他人。かつての知り合いはもう亡くなり私一人、寂しく老いぼれてしまった。だけどその人は私を見てニコリと友達みたく笑って「ごめんなさい、人違いです」とぎこちない会釈をして霧のように去ってしまった。永遠に埋まらない空洞が枯れ果てたはずの心の隅に小さく空いた。春はまだ来ずに冬を待つ人々は店先に並ぶ手袋を談笑しながら吟味している。私の首には毛羽立ったマフラーがぐるり巻かれている。


満たされることの無いカバンを抱えてふらふらと街角を滑り落りていく。人波の中では私だけが異物で逆方向に進んでいく。何か忘れ物を探すように知らない街角をどこまでも滑る。コツコツとなる革靴の硬い蹄の音が耳に何度も響いている。掴まった階段の手すりは私を突き放す。私は空っぽのカバンを抱えてふらふらと温度の無い人波を滑っていく。どこに着くかもわからずに、ただひたすらに一人。


溶け、冷たくなっていく心を連れて何もないシャッターばかりの街を歩く。ところどころ壁が剥がれて私は一人乾いた息を呑む。端へ追いやられた雪を私は踏みしめて歩いていく。


地球の終わりを夢見る。押し寄せる大波に蹂躙されていく文明の終わりを、コバエみたく浮いてくる人々の喜怒哀楽の表象を。


皆は呼べるのだろうか、自分が辛く悲しい時の代わりの人を。静かな人波に私は一人露草を見る


カラカラと鳴る水車に耳を傾ける余裕もなく一人柿の成る里山を超えていく。さわさわと落ちる落ち葉に私は滑らない様に強く、歩く。


気の持ち様一つで変わる世界を私は歩いている。それは万華鏡みたく目まぐるしく変わり、ざらざらと過ぎゆく。今を取りこぼさない様に目を見開き今を見つめている。


外でなく寂しげな犬。それは私の心の射影。ひとりぼっちの喧しい影。


ピュウと音を立てる鼻が風邪をひいている事の証明。だけど不思議とだるさはないあるのは抑えの効かない虚無と衝動的なこの精神だけ。ピュウと鼻から風が吹く。


10年前に止まってしまった心の時計、私は今日も同じ気持ちで変わらない天井を見つめる。動きづらくなった体の痛みにひしめいて静かに呻く。

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