25. アーサー王の子孫
雨ばかりが続く長い冬にも、必ず終わりを告げるときが来る。また一つ季節は廻って、新しい緑が芽吹く短い春が訪れた。水仙の時期が過ぎ、城の庭には木蓮の花が咲き始め、アーモンドの花の蕾が膨らんでいる。歩くことすら困難だった地面の
「そんなに走ってはいけません。転んでしまいますよ!」
木の枝を持った小さな男の子を、数人の見習い女中が追いかけていく。朝露に濡れた芝に滑って、尻もちをつくのは女中たちだけ。男の子は彼女たちの間を巧みにすり抜け、笑い声をあげて鬼ごっこに興じている。
「転ばないよ。僕は強い騎士だもん」
男の子は棒きれを剣に見立て、思いっきり空に突き出す。その姿はとても可愛くて微笑ましい。しかし、乳母不在時の子守を頼まれた女中たちは、怪我が心配で気が気ではなかった。
「真の騎士は弱きを守るもの。お女中たちを困らせてはいけませんね」
その言葉を発した青年を見て、女中たちは強い味方が戻ったことを知った。これでもう鬼ごっこはお役御免になると、ホッと安堵の息をつく。男の子は興奮でさらにほっぺを紅潮させ、持っていた棒を放り出す。そして、声がしたほうに向かって、全速力で駆け出した。
「ウィルだ! 戻ってきたの? お城にずっといる?」
男の子はお気に入りの遊び相手に飛びつく。ウィルと呼ばれた青年は、この城と郊外の屋敷を繋ぐ
「ただいま戻りました。これからはずっとお側におりますよ」
「やった! リズリーはどこ? 一緒だったんでしょ?」
もう一人の
ロンドンではリズリーと共に、貴族がスポンサーとなっている多くの劇団を見て回った。ウィルの恋人と
「リズリー様は、しばらく戻れないそうです。でも、たまにこちらを訪ねるとおっしゃっていましたよ」
リズリーはこの後、ケンブリッジ大学の法学院で学び、デヴァルーの側近として女王の宮廷に仕えることになる。ケンブリッジからこの城までは、馬を乗りかえれば一日で到着できる距離だった。
「ふうん。つまんないの。じゃあ、本を読んで! ‘
伝言係の二人は、今は3歳になった男の子の子守役だった。領主レスター伯ダドリーの後継者『ロバート・ダドリー Jr』。彼と城内を一緒に走り回るのはリズリーで、本を読み聞かせるのがウィル。文武で分業がされていた。
「デヴァルー様は? こちらだと聞いてきたのですが……」
その質問には女中の一人が答える。
「乳母様がお相手をされております」
つまりデヴァルーはアンとお楽しみ中。邪魔をするなという意味だった。
「では、乳母殿が戻られるまで、このウィルが『ロバート』様のお相手をいたしましょう」
「うん! 部屋に行こうよ!」
ウィルが領地に戻るタイミングで、デヴァルーはアンと城の奥深くに籠った。ほとぼりが冷めてから、テンプル・グラフトンの屋敷にアグネスがいる事情を説明しようという魂胆だ。
「これはこれは。また随分とたくさんの本をいただきましたね」
「アンが戻るまで退屈しないようにって」
一日二日で読める量ではない。つまり、数日はアンとの逢瀬が続くという意味だ。そして、ウィルの知りたいことにも、その間は答える気はないということ。
「最近はどんなお話をお好みですか?」
本を手に取ってパラパラとめくりながら、ウィルが質問する。
「騎士のお話! りんご売りのおばあちゃんに、アーサー王のこと聞いたの!」
アーサー王と6世紀頃に実在したウィールズの武将で、当時しばしば侵入するサクソン人を撃退した。そのため、ケルト族の英雄とされていた。
その伝説については、15世紀に出版されたサー・トマス・マロリーによる散文詩『アーサー王の死』が集大成とされている。ただし、その原典となっていたのは12世紀にジェフリー・オブ・モンマスがラテン語で著した『ブリテン列王史』だった。
「アーサー王は人気がありますからね。どこまでご存じですか?」
サクソン人による征服によって混血が進み、ケルト民族は途絶えたと言っていい。それでも、各地には土着の信仰や因習が根強く残っている。様々な伝説も広く語り継がれていた。
「あのね、僕の
てっきり有名な岩から剣を引き抜く場面や、湖の乙女から宝剣を授けられた
その昔、己をアーサー王の子孫と主張したのはヘンリー7世。その男子直系の最後の子孫は現女王で、女子傍系はスコットランドのジェームズ6世だった。
「それは……、ジェーン様の
ウィルの質問に『ロバート』は鼻の穴を膨らませて、さも得意そうに答える。
「うん! 『白バラ』のヨークと戦った『赤バラ』のランカスター! ヘンリー・チューダーのことだよ!」
聞いてはいけないことを聞いてしまった。ことの重大さに、ウィルは手に持っていた本を、思わず床に落としていた。
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