第8話

紋太郎は越山和尚の寺、方広寺に寄宿していた。方広寺は紋太郎が5才から12才になるまで育った所であった。紋太郎は中山道木曽山口村、馬籠宿の生まれで、5才になるとき祖父、嘉平次と共に旅に出た。何処か楽しいところに行って、帰ってくるぐらいのものと思っていた。旅はそんなものでなかった。物乞いの旅であった。

やっと物心がつきだした幼いものにも、辛さが滲みた旅であった。中山道から日光例幣使街道に入り、この今市宿に来て、嘉平次は病に倒れ、この方広寺に2晩寝させてもらい、息を引き取った。最後を看取ったのが越山和尚と、梅安先生であった。紋太郎は和尚に引き取られた。嘉平次はこの寺に無縁仏として葬られている。冬、寒い中の朝のお勤め、広いお寺の掃除、大きくなっては賄いと、和尚は年齢に関係なく厳しく教えこんだ。


吉兵衛とは、両親と一緒に墓参りに来た時に知り合った。あまり遊び相手のなかった紋太郎には、かけがえのない友となった。お夏も、両親と墓参りに来た時に、その少女の姿を遠目で見て、綺麗な子だと紋太郎は思った。しかし勤行で、滅多に町中に出してもらえない紋太郎には、以降、お夏と接することはなかった。加代とは父兵衛がこのお寺の堂を借りて寺子屋をやるようになって姿を見るようになり、挨拶の言葉を交わすようになった。梅安先生と和尚は囲碁仲間で、よく呼びの使いで行かされ、志帆を知った。


あるとき、庭の掃除をしていて、いい加減な掃除ぶりを咎められ、紋太郎は和尚に厳しく打擲された。大きくなって、それでなくても厳しい戒律のお寺の勤行に、「あーん」をしていた時であり、その晩、こっそり寺を飛び出した。生まれた地、馬籠に行って見たかったのである。幼い日、両親に見送られたあの日、かすかにその光景を憶えている。


馬籠に行く途中で、あまりの空腹で倒れかかっていたのを、助けてくれたのが洗馬宿のお時であった。2階屋の格子の手すりから、ひょろひょろ歩きを見かねたのか、「お兄さんどこまでお行きかねぇ」と声かけてきた。紋太郎は諏訪、塩尻過ぎてこの宿に来たのであるが、三日三晩水だけではさすがに堪えた。「馬籠です」と応えた声がようーやっとであった。

「お兄さん、まだ宿は十一も先だよ。その足では到底無理。上がって休んでお行き」と食事を振舞ってくれた。お時はこの遊女宿の女郎で、中でも一番の売れっ子であった。そこの宿(やど)の下働きとして紋太郎は働くことになった。お寺仕込みのキビキビした仕事振りは重宝にされた。そろそろ大人にさしかかっていた紋太郎は、お時に初めて恋心を抱いた。それはやさしくしてもらった年上の女への思慕でもあったが、異性として「抱きたい」との思いは払うことが出来ないものであった。


お時は、馬籠宿の妻を亡くした旅籠の主人、木曾屋周五郎に引かれて、旅籠の女将になり甲斐甲斐しく働き、旅籠は繁盛した。紋太郎はお時の幸せを喜んだ。しかし、お時の幸せは長くは続かなかった。お時に前から言い寄っていた、同じ馬籠宿の悪党、原田屋平次の手にかかって主人、周五郎は亡くなった。その平次を叩き切って、紋太郎が渡世の世界に入ったのが16の時で、そして風来旅とは聞こえがいいが、放浪の末、今市宿に舞い戻ってきたのが25の時であった。


お夏の店に吉兵衛と顔を出した時に、「ひょっとして、紋太郎さん?」と声をかけられたのであった。

「俺はお前をお寺で幼い日、チラッと見ただけだが、どうして分かるんだい」

「いい男は、少女でもわかるのさ」とお夏は応えたが、吉兵衛が、

「紋太郎さん。お前と俺が遊んでいた時、それを見ていたお夏ちゃんが、あの人誰と訊くもんだから、お前の名前を教えたのさ。それから4、5日して、お前がお寺を逃げ出したから、余計に憶えているんだろうよ」

 それが、紋太郎がお夏と口を利いた初めであった。


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今市宿騒動記 北風 嵐 @masaru2355

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