私は破綻してしまったから
神田(Kanda)
第1話
ぼーっと窓の外をレースのカーテン越しに見ていた。夕日もほとんど沈んでしまって、夕方と夜の境目を迎えた空は、ほんのりと青みかがっている。そんな空を見て、私は少しだけ、足が地に着かなくなっていた。その理由は、いわゆる乙女な理由と呼ばれるようなものだ。自分の心の中で呟くのすら恥ずかしい。そんな理由だ。もう少ししたら、あの人が、私の想い人が帰ってくる。
(ああ、早く......会いたいなぁ。)
カチャリと、ドアが開く音がした。誰がこの部屋に入って来たのか、なんて。そんなことは考えなくても分かることだった。
私は、ゆっくりとそのドアの方へと視線を動かして、その人へ向けて言葉を紡いだ。
「おかえり、アカネさん。」
「あ、うん......ただいま、ユキちゃん。」
アカネさんは、仕事でとっても疲れているようだった。アカネさんの雰囲気がそう言っていた。それに加えて、寝不足のせいで、目の下のクマも朝より濃くなっていた。
「お仕事、お疲れ様。晩御飯は簡単なのだけど、作っておいたから、一緒に食べよ。」
「......うん。ありがとね、いつも。」
アカネさんは、ポツリポツリといった感じで、どこか悲しそうに、あるいは、無理しているような声音で、私に返事をしてくれた。
リビングの小さいテーブルで、横並びに座って、一緒に晩御飯を食べていた。今日の晩御飯はオムライスだ。そうした理由は、前にアカネさんに好きな食べ物を聞いた時に、オムライスが好きだと教えてくれたからだ。
「アカネさん、美味しい?」
「うん、とっても......美味しい。」
「ふふっ......良かった。」
アカネさんはさっきよりも、ほんの少しだけど、表情が明るくなった気がした。うっすらと微笑を浮かべているようにも見える。
(かわいいなぁ......。)
私は、この穏やかな時間が好きだ。お仕事を頑張ってきたアカネさんが、私の作ったご飯を美味しそうに頬張っているこの時間が。
「はいアカネさん、あーん。」
「え、え?」
一度やってみたかったことをしてみた。好きな人に手料理をあーんしてあげるなんて、夢のような話だ。
「ほら、口開けて?」
「あ、あーん。」
スプーンですくったオムライスを、アカネさんの口へ向けて運んだ。アカネさんの口の中がちらりと見えた。その瞬間に、何だかいけないことをしているような気分になって、ドキドキした。スプーンをアカネさんの口の中へ入れて、食べてもらった。もぐもぐと食べるアカネさんが可愛くて、思わず抱きしめたくなった。
「アカネさん、もっと食べる?」
私はスプーンでもう一度オムライスをすくって、アカネさんへと向けながら聞いた。
「.........うん。」
アカネさんは、小さく、消え入りそうな声で、答えてくれた。
晩御飯の後、お風呂や歯磨きなどを終えて、いつものように寝室で、二人一緒にのんびり過ごしていた。ベッドの側面に背中を預けて、隣に座って、一緒にスマホで動画サイトの動画を見ていた。スマホはアカネさんに持ってもらっていた。アカネさんのスマホにはヒビが入っていて、少し見ずらいけれど、今ではもう慣れたものだった。
私はアカネさんの肩に頭を乗せて、アカネさんのもう片方の手を握りながら見ていた。アカネさんの髪の毛から、シャンプーのいい匂いがした。
「アカネさん、髪の毛いい匂い。」
私がそう呟いたのだが、アカネさんからは返事がなかった。
「アカネさん、?」
私は、手をより力強く握りしめながら、アカネさんの方へと視線を動かした。すると、アカネさんはいつの間にか俯いていた。
私は、アカネさんがスマホを持っている方の手の手首の辺りを軽く掴んで、アカネさんの顔を覗き込んだ。
「あ......ご、ごめんね。」
アカネさんの頬には、一筋の涙が伝っていた。
「大丈夫?」
私はずっと握っていた手を離して、アカネさんの頬を両手で覆うようにして、顔を上へと動かした。
「あ......あ.........」
アカネさんの顔は、私の顔を認識すると少しずつ、歪み始めた。目からはたくさんの涙が溢れて、口からは嗚咽のような声が出ていた。
私は膝立ちの状態になって、アカネさんの頭を抱きしめた。そうして、頭をポンポンしながら、
「アカネさん、私はアカネさんの味方だからね。ずっと、ずっと.........。」
と言った。
嗚咽は小さな泣き声に変わって、それはだんだんと体の痙攣へと変わり、そうして、アカネさんは泣き疲れて寝てしまった。きっと、仕事の疲れや、寝不足もあったのだと思う。
私は、アカネさんの体をベッドの上に乗せて、冷えないように布団を掛けた。
(ふふっ、寝顔かわいい。)
そんなことを思いながら、横で少しの間、その顔をじっと見つめていた。すぅ、すぅ、と規則正しく刻まれるそのリズムが、聞いていて心地良かった。だけど、寝顔すら少しつらそうな顔をしているアカネさんを見て、少し哀しい気分になった。
ここに来て、大体もう一か月くらいの時が経っている。最初は監禁状態だった。私はロープで縛られて、寝室に閉じ込められていた。食事は毎日アカネさんに食べさせてもらった。お昼ご飯が無い分、晩御飯を多めに作ってくれたり、買ってきてくれたりした。トイレはロープを調節して、ギリギリ行ける距離にしてくれた。お風呂は、最初のロープで繋がっていた頃は入らせてもらえなかったけど、髪の毛と体は拭いてもらっていた。一部分は自分でやるように頼まれたので、そこは自分でやった。服は、最初の三日間くらいは中学校の制服のままだったのだが、四日目くらいからは、アカネさんの服を着させてもらった。
監禁生活のはずなのに、私が不満に思っていることを、何も言わずにアカネさんは解消してくれるし、暴力なんかも振るわれることは一度もなかった。
時々、泣きながら抱きしめられたりはしたけれど。
そうして、私は、そんな生活を送っていく中で、自分の中に幸せな気持ちがあることに気づいた。
自分の身の回りの生活の、色んなことをしてくれて、構ってくれて。
私のことを、大事に扱ってくれて。
私のことを、大切にしてくれて。
嬉しかった。
誰かから必要とされるのが、嬉しかった。
愛というものを貰うのが、嬉しかった。
だけど、アカネさんは罪悪感に苛まれていってしまった。最初に会った時からつらそうにしていた顔は、最近ますます酷くなっているような気がする。アカネさんは、優しい人なのだ。まだ、ちゃんと理由は聞けていないけれど、多分アカネさんは、もう色々なことに耐えられなかったのだと思う。それが何かは分からないけど、つらくなってしまって、衝動的になってしまって、私を監禁してしまったのだと思うから。
......だから、アカネさんは、何も悪いことはしていないんだ。しょうがなかったんだ、きっと。
いつものようにどこかつらそうで、悲しそうで、だけど、心配をかけまいと言わんばかりのほんの僅かな抵抗としての微笑が表れているその顔を、ちらりと見た。
今日は、昨日よりは、よく眠れていそうで安心した。
......きっと、この時間はいつか、一旦終わりを迎えるはずだ。だけど、それでも。
私はこの人のことが好きだから。
好きになってしまったから。
私は、アカネさんを起こさないように、そっと唇を重ねた。嬉しいようで、悲しいようにも思えた。このキスは、ただの確認のキスだからだ。
一体何を確認しようとしているのか。
愛か、アカネさんの存在か、この現実か......
私には、分からない。
何にも、分からない。
私は、元から色んなものを奪われた人生だった。
だから、今はとっても心地が良い。
この関係が、社会から見て悪いものだったとしても。
だから......だからね、アカネさん。
アカネさんは、何も悪くないよ。
(おやすみ......アカネさん。また、明日ね。)
そう心の中で呟いて、アカネさんの隣で、私も一緒に寝るのだった。
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