サクラフル

しふぉん

第1話 四月、君の輪郭をなぞる

図書館の棚の目先には見慣れた一冊が置かれていた。江國香織の「東京タワー」だ。なぜかすぐには読む気になれなかったその本を今日は借りたくなった。図書館を出ると弱い風が吹いていた。四月なのに肌寒い日々が続いている。桜はまだ蕾だ。あの日、家の近くの公園の桜の木の下でしたキスの感触は忘れた。


ねえ、君は今、何をしているか。


ほろ苦い初恋というものがあるなら君は私にその味を感じさせた張本人だ。まるでオレンジピールの入ったチョコの苦味。




十年ほど前になる。私は22歳。新卒で就活に失敗してしまった。内定を一つももらえないまま、三月の卒業式になった。卒業式のあいだは、終始モヤモヤした気持ちが残った。

大学内の大きな講堂でパイプオルガンの厳かな音が鳴り響いた。ぼーっとしているうちに式は進み、終わりを迎えた。卒業式はスーツに、名前の分からない黒くて四角い帽子をかぶって行っていた。講堂の目の前で掛け声がかかる。


せーの。


皆、澄み切った空に向かって帽子を投げた。帽子はすぐに落ちていった。何も感情がなかった。ただ、卒業式を迎えられたことに安心して息を吐くだけだ。やがて、卒業生は解散となった。両親がやってきて写真を撮る学生や友人とはしゃぎだす学生がいた。私はただ一人静かに空を見上げた。


三月の風はつんと冷たく感じた。来月までマフラーがまだまだ手離せないだろうなと思った。朝、ニュースの天気予報でアナウンサーが春はまだ遠そうですね、と話していた。遥かまだ遠い春は天気だけではなかった。帰宅すると悩みが尽きなかった。

友人と行動することもなく30分ほどかけて自宅に帰るとうちの中は誰一人いない。母親は仕事をしていたし、妹もいつも通りハンバーガーチェーンのアルバイトをしに行ったらしい。家族は私に関心がない。昔は腫れものに触るにされたけれど大学に通い出してからは「普通の子」の皮を上手く被れるようになって両親の関心は私に向かなくなった。


私は大学では勤勉な方だった。けして成績は上の方ではないが、いくつかの専攻科目で秀を取るなどしていた。勤勉な学生であると同時に苦学生でもあった。私立の女子大に推薦入学した私は周りの家庭環境や経済的状況を知り、入って早々に愕然とすることになった。大学は担任つきのクラス制だった。

一際目立つ学生が言った。


「何ホームルームって。だるいなあ」


種村という名前の学生だ。ショートの黒髪に整った顔立ち。私と英語のクラスが同じだった。彼女は私立の女子校出身の学生で、いわゆるお金持ちという噂があった。授業態度はよくはなく、前の席や隣の席の学生と話したり、流行りのSNSを見ていたりした。種村はファッションセンスが抜群によく、アパレル販売のバイトをしているというのを以前教えてくれた。授業態度が悪くはあるが、分け隔てなくみんなと話すので種村はクラスの中心人物だ。私は彼女と英語のクラスの際話すことがあった。目的は多分、ノートうつしだがそれでも話すのは楽しい人間であった。今日は鮮明な青いカーディガンを着こなし、彼女の健康的な肌とピンクに染まった頬が際立っていた。その隣で相槌を打っているのは種村と仲の良い学生がいた。この前まで黒髪のロングヘアだったが、髪型がボブになっている。その髪型は種村の好きだという人気芸能人によく似ていた。黒縁のメガネをいつもしていて、種村とは少しタイプの違う学生に思えた。


「すーちゃん、ホームルーム始まるまで後何分?」


「んー、5分」


「ビミョーだね」


私がそれを聞き、名前のあいうえお順になっている席に座ると種村がいつの間にか後ろの席で欠伸をしていた。


「緑ちゃん」


近くの席にいるかなでが近づいてきた。


「来週締切の斉藤先生のレポートって書けた?」


「書けてるよ。参考文献が足りなくて探しているところだけど」


「そっかぁ。今回ちょっと難しくて私まだ一行も」


「あー」


「あっ、種村さんはどう」


種村は首を振る。


「そっかあ。やっぱり書きにくいよね」


「あの人さあ、授業分かりにくいしなんなの」


すると、担任の仁科先生がやってきた。


「ホームルームが始まるからみなさん席についてくださーい」


と、クラス委員の川名さんが周りに呼びかけた。この大学はご丁寧にクラス委員という人がいる。まるでJKの延長線じゃないか。


「起立、礼、ご機嫌よう」


「ご機嫌よう」


仁科先生がクラス全体に目をやる。そして、入学早々に行われる学寮研修の説明を始めた。

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サクラフル しふぉん @harukakitaayase

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