最後の日記

@Aoe__nagi

序章


 恋は人を呪い、愛は人を殺すので、私は彼を敬愛することにしていた。


 一文目はそれであった。妙に物騒な文章だった。女刑事、柏木玲子かしわぎれいこは後輩から貰った、覈發瓈蓏しらはなれいらの遺書のUSBメモリを意味もなく撫でる。どことなく、霜月雪哉しもつきゆきやの雰囲気が感じられるのは、彼らが共に共同生活を営んでいたからなのだろうか。


「──続いて、白藤学院第二講堂前から中継です。月影人権回復運動を名乗る“月影”の連中らは、霜月雪哉の訃報から着々と勢力をあげているように思います!」


 オフィスに佇むテレビから、そんなアナウンサーの叫び声が流れた。アナウンサーの後ろには、「月影に人権を!」「紅華紋こうかもん翠紋すいもんに報復を!」等と書き殴られたプレートを掲げた月影の連中が、月影人権運動──つまるところデモ──を起こしていた。それに対して玲子と同じ職に就いている警官がやたら虚ろな目で対抗している。

 玲子は誰に向けたものでもない舌打ちを吐き棄て、テレビの電源をコンセントごと抜いた。もうこのニュースにはうんざりだった。


「紅華紋だとか翠紋だとか、こんなカーストも無くなっちまうんですかね。」


 玲子にUSBメモリを渡した後輩、井上徹いのうえとおるが自身の腕に刻まれた──この国で翠紋と名称されたそれを見つつ呟いた。白い腕にある、青みの含んだ椿模様──。


「さあな。元より私はこんな制度、古臭いとは思っていたんだ。寧ろ腐った制度に改革が起こるかもと、内心期待してるんだよ。ここだけの話だが。」


 玲子はそう云って、自身の頬をそっと撫でた。彼女も同様に翠紋の痣があり、中級階級ならざる痣を持つ。


 “紅華紋”、“翠紋”、“月影”。

 これらの痣の歴史を辿れば、それは紀元前にも遡る。


 争いの絶えぬ地方であった。

 争いが争いをうみ、最早お互いが何のために争っているのかも分からなくなり、では統制する者を仕立てようと──。

 誰が云いだしたのかは分からない。すっかり当たり前だと受け入れていた“痣”を、見れば幸福が訪れるとも謳われるほど珍しい薔薇模様の痣を持つ者を、王とし崇め従おう、と。

 単純にして聡明であった。統制がまるで下手くそでも、頭が弱くても、私腹を肥やすことしか考えていなくとも、争いが生まれるよりは──否、すべての責任を彼らに押し付けることができると、不思議なくらいにその制度は浸透していった。そしてやがて気付いた。紅華紋と呼ばれるようになったそれは、どんな人間と交配させてもその痣を持って生まれる確率が極めて少ないのだ。

 さあ、いよいよ紅華紋が途絶えてしまう、そんな時代のことだった。

 交配には顕性性質と潜性性質があることが分かった。

 紅華紋と紅華紋、紅華紋と翠紋の交配はどちらも同じ割合で交配していくことが分かり、紅華紋と月影は幾ら交配を重ねても紅華紋を持つ赤子は生まれないのだ。

 簡単な話である。そうとなると遅からず待ち受けるのは“月影狩り”である。

 細かく話をしていくと長くなるので中略すると、そういう歴史の出で立ちにより、今のカースト社会が仕組まれているのだ。


 玲子と徹はその中でも世界的に見て一番人口の多い、尤も平凡な翠紋に属する。


「とはいえですよ先輩。月影がいるからこそ成り立ってる部分もあると思うわけですよ。僕は“月影制度”賛成だなあ。」

「どちらにしても、私たちが関わることはないだろう。無駄な戯言はここまでにして仕事に就いたらどうだ?」

「釣れないですねえ。これ、見つけたの僕の手柄なんですよ?」


 そう言って徹は玲子のデスクに近づき、USBメモリをコツコツと叩いた。


「──感謝はしている。まさか霜月雪哉にがいるとは。」


 霜月雪哉とは数年前に第二回白華電撃新人賞大賞を掴み取った若手作家である。今どきでは珍しい覆面作家を貫き、分かっているのは白藤学院文芸学科出身であることと紅華紋を持つ人間であることだ。デビュー作である「最期の日記」は、小説を趣味としない玲子ですらもあらすじを言える自信がある。


「まあ雪哉氏の奇抜で独創的な作風、隠し子の一人や二人いそうですもん。」


 徹はそう云い、何かを思い出したかのようにぶるりと身震いした。


「ミステリでもなかなか見ないですよ、あんな死に方。」


 あんな死に方──そう形容されてしまうのも無理はない。


 一つの生活感すら残さない、廃れたアパートの角部屋。彼はそこで致死量の睡眠薬を取り込んで自殺していた。ご丁寧にも、覈發瓈蓏の遺書とワープロで打たれた紙の上にUSBメモリと霜月雪哉と断定させる仕事用のスマホまでつけて。

 胃の中から溢れ出そうになる吐瀉物をグッと堪えながら、半ば反動のようにして玲子は呟く。


「...覈發瓈蓏。」


 彼女は、そんな壮絶な死を遂げた雪哉の謎を紐解く唯一の証言者だと云えた。覆面作家を貫き、誰も雪哉の情報を知らない中、彼女だけが本当の意味で雪哉を理解しているのだ。


「現実にミステリを持ち込むのは野暮だとは承知です。けれどこれは──ミステリ小説だと、必ずキーになる人物ですよ。」


 覈發瓈蓏の遺書。霜月雪哉の動機不明の服毒自殺。


「さあな。残念だが、私はミステリに興味はないんでね。」


 とはいえ、玲子はこの事件を有耶無耶にするつもりはなかった。


「上層部はデモで手一杯。講談社スタッフへ“もう、期待されたくない”と送信されたメッセージから動機はスランプと批評家の厳しい意見による自殺だと断定。覈發瓈蓏は一部の熱狂的なファンによる悪戯として捜査はもう打ち切りになるみたいです。」


 淡々と徹の口から告げられる上層部の投げ槍さや適当さに、玲子は軽く舌を鳴らした。


「覈發瓈蓏は絶対に何かを握っている。完全に捜査が打ち切りになるまで、私たちは彼女を追う必要があると思うんだ。」


「ほう。先輩が断定するなんて余程の事じゃないですか?」


 玲子は部署内でも特に慎重派だと定評がある。そんな玲子が証拠もなしに断定したので、徹は少しばかり目を見開いた。

 そんな徹を見てか、玲子は一度息を吐くともう一度パソコンに向き直った。不気味で惹き付けられるような文章ともう一度対面する。


「──。」


 玲子はゆっくりと画面をスライドさせた。

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