館野 伊斗

第1話 目覚まし

「起きろ─────!!!!!!!」


 突然の大音響に、俺は飛び起きた。

 思考が霞んだまま辺りを見回したが、視界には何も映らない。

 何が起きたのか判らないまま慌てている俺の耳に、壁の向こうから女の笑い声が聞こえてきた。どうやら、誰かと携帯で話しているようだ。

(ちっ・・・・・・・・・・・・)

 枕元にある携帯を手に取ると、2:42の文字。

 真夜中だ。

 接待で遅くなり、這うようにしてベッドに入ったのが1時だった。

 憤慨しながらも再度眠りにつこうとしたが、薄い壁の向こうから聞こえてくる若い女の声と音楽の音が気になり寝付けない。低いベースの音はまだ我慢できるが、甲高い声が妙にイラつき、目が冴えてきた。

(真夜中に「起きろ!」なんて叫ぶか? 非常識だ! 文句を言ってやろうか・・・・・・)

 殺意に近い怒りを覚えながらも、アルコールが回った身体はベッドから起き上がることを拒否し、何時しか眠りについた。

 次に俺を起こしたのは、けたたましい目覚ましの音だった。


◇◇◇◇ 

「馬鹿もん!」

 部屋が一瞬静まり返った。

 オフィスの人間の視線が、一斉に俺に注がれる。

 課長は、大事な会議に遅れるなど社会人としての自覚は無いのか、お前のお陰で恥をかいた、等々愚痴とも取れる言葉を延々と漏らし続けている。

 電車が止まっていました、などという言い訳は、既に一蹴されていた。

 寝不足から支度に時間を要し、少し家を出るのが遅れたら人身事故が起きており、運行がストップしていたのだ。

 課長は顔を赤らめ、俺と視線を合わさず机の上を見たまま、怒りの言葉を発し続ける。

「聞いているのか!!」

 あまりの長さに一瞬、意識を失っていたようだ。

 永遠に続くと思われた課長の説教は、突然終わった。

 身体を椅子毎横に向け、手の甲で宙を払う。

 まるで邪魔者を追い払うような仕種しぐさだ。

 俺は何度も繰り返した「すみません」という言葉を言いながら頭を下げ、課長席の前から立ち去った。


 机に着くと、隣に座る後輩が、顔を近づけてきた。

 片桐課長の視線を確認しながら、潜めた声で話しかけてくる。

「課長、小柳先輩の資料を説明出来なくて、常務に怒られたんですよ。部下の仕事も把握してないのかって」

 会議に出席していた後輩は、可笑おかしそうにそう言って、ゆっくりと姿勢を自分の机に戻す。資料は昨日事務局に渡してあった。もちろん課長の承認を貰い。

 俺が会議室に辿り着いたときには既に俺のプレゼン順番は終わり、整然と会議は進められていた。

 その会議室で一人だけ、課長が俺を睨み付けていた。

 多分、そんな事だったのだろうとは予測していたが、改めて先程長く続いた説教の訳が解った。

 その時、背後から肩を叩く者がいた。

「健二。今度飲みに行こうぜ」 

 同期の井上が、通りすがりにそう声をかけて立ち去って行った。


◇◇◇◇

 憂鬱な気分で自分のアパートに戻った俺は、部屋の明かりが点いているのに気づいた。

(ゆきこが来ているのか・・・・・・)

 そう考えながらアパートのドアを開ける。

「あ、お帰りなさい」

 部屋の奥から聞き慣れた声が響き、ゆきこが、部屋の奥から静かに出てきた。

「ただいま」

 居間に向かいながらネクタイを外すと、ゆきこが鞄と共に受け取る。

 部屋の中は整理されていた。

 取り込んだままになっていた洗濯物が畳まれ、テーブルには食事まで用意されている。俺がいない間に、ゆきこが片づけて夕飯まで作ってくれていたようだ。

 更には部屋は適温に保たれ、先程までの汗が消滅してゆく。

 正直今日は独りになりたいと思っていたが、滅入った気分が薄まっていった。

 俺はワイシャツを脱ぎ、それを椅子の上にかけて食事が並ぶ飯台の前に座った。

 ゆきこは俺の脱いだ服をハンガーに通し、壁に掛けてから俺に前に座る。

「はい」

 ゆきこが茶碗によそいだご飯を受け取ると、飯台へと置いて料理を見渡した。

 先ずはゆきこが置いた湯気が立ち上る椀を口に運び、熱い汁を啜る。

 旨みが口に広がり食欲をかきたて、一気に目の前に並ぶ料理に意識が集中する。

 落ち込んだ昼間の出来事など忘れ、厳選したおかずを口に放り込むと旨みが噛む度に湧き出し、急いで白米をかきこむ。

 料理に夢中になりながら、ふと疑問が浮かんだ。


(何故この女は俺とつきあってるんだろう・・・・・・。)


 ゆきこは地味で大人しいが、料理は上手いし、よく気が利く。不思議と食べたいと思っていた料理が出てくるし、部屋は常に快適にしてくれている。しかも夜の奉仕は完璧。一度つきあった男は絶対に結婚を思い描くはず。何故この年まで結婚していないのかが不思議なくらいだ。

 男の目を引かないのも化粧をしていないだけで、口紅の一つでも塗れば印象はぐっと変わるだろう。間近に見ることの出来る俺は、ゆきこの肌の白さもきめ細やかさもっている。

 理由を聞くのも躊躇ためらわれた。

 聞けば、この関係が壊れてしまいそうだから。

 それに家が厳しいのか、ゆきこは終電までには必ず帰宅する。

 聞き損ねている内に、いつからか俺はこの関係を維持することを優先するようになった。


◇◇◇◇

 目覚ましがけたたましくなっている。

 次第に覚醒していく意識の中で、その音は苛立たしさから恐怖感へと変わっていった。

 慌ててベルを止め、時計を見つめる

「しまった!」

 寝過ごしてしまった俺は、ソファに掛けてあったシャツを掴み、袖を通す。

 電車の時間まで、走った場合の時間を考えるとあと5分しかない。

 靴下とズボンを履き、上着を掴むと洗面台へと駆け込む。

 案の定、髪はぼさぼさだった。

 水で濡らし、なんとか寝癖だけを押さえると、大急ぎで髭を剃る。

 顔を洗うと、数カ所剃り残している感触があったが、気にしている暇などなかった。

 洗面所を出て、玄関へ向かう。

 通勤靴を履こうとして、サンダルが中央にあるのに気付いた。

 革靴は何故か、端に置かれている。

(なんだ、この急いでるときに!)

 俺は斜めになりながら靴を履き、駅へと走った。

 電車の扉が閉まる瞬間、俺はいつもの電車に乗ることが出来、安堵の溜息をついた。

 安堵感を覚えると、玄関の鍵を掛けてきたかどうかが気になった。

 家を後にした瞬間を思い浮かべるが、どうしても思い出せない。

 最近、記憶力が弱まった気がする。

 とはいえ、今から確認するため家に帰ることも不可能だ。

 俺は鍵を掛けたことを信じて、流れていく街の風景を眺めた。


◇◇◇◇

 会社について椅子に座ると、玄関の光景がふと蘇った。

 疲れているせいかもしれないが、最近記憶の欠如が著しい。

 何故サンダルが出ていたのだろう。

「小柳君」

 課長が呼ぶ声がした。

 俺は返事をして課長席の前に立った。

「修正だ」

 そう言いながら課長は、俺に書類を渡した。

 俺は書類を受け取り、自分の席に戻って修正箇所をチェックした。

 文字に目を走らせているうちに、ある事に俺は気づいた。

 修正箇所の半分は、以前課長が修正しろと言って変更した箇所だった。

 しかも、朱字で訂正されてある文章は、俺がに最初に書いたとおりに戻すような内容だ。

 自分が修正した事を覚えていないのか?

 俺は課長の方を見た。

 書類に目を戻し、とにかく言われたとおりに修正すればいいと考え直した。

 俺は課長の汚い文字に苦戦しながら、書類の修正に取りかかった。


 数時間後。

 俺はまた課長に呼ばれた。

 先ほど修正した書類をまた修正しろと言う。

 

 この書類の提出期限は今日中だというのに何を考えているんだ。

 朝一番の会議の資料だった。

 どうやら、嫌がらせのようだ。



◇◇◇◇ 

 その日俺は、配られた常務会の議事録を読んで目を開いた。

 片桐課長が出した企画書が、社長から期待されているというような内容だった。

 しかし俺は、課長が意外に有能だったことに驚いた訳ではない。

 片桐課長が考案したと書かれているその企画書は、俺が独自で考え、課長に提出した物だった。

 この企画書を作るのに、日常業務の合間を縫い、図書館や家で調べ物をして苦労して作った俺の自信作だった。

 それがなんで課長の手柄になってるんだ。

 俺は書類を見つめながら、力が抜けていくのを感じていた。



◇◇◇◇

「どういうことですか、課長・・・・・・」

 会社の人通りの少ない廊下で課長を呼び止めた俺は、そう問いかけた。

「何がだ」

 課長は振り返りながら答えた。

「この企画書になんで僕の名前がないんですか」

「ああ、これは私が代わりに出しておいた」

 課長はそう平然と答えた。

「しかしこれは、僕が半年かけて・・・・・・」

「馬鹿もん!!」

 突然課長は恫喝した。

「一介の平社員が出した企画書がそうやすやすと会社を動かせると思っているのか!!」

 紅潮する課長の顔を見て、俺は言葉を飲んだ。

 課長は俺を一瞥すると、廊下の向こうに消えていった。

 静かな廊下に、俺は立ちすくんだ。

 両の拳が、知らぬうちに握りしめられ、小刻みに震えていた。

 俺は憎悪を抱き、それが殺意へと変わるのを覚えた。

 しかし、会社を辞める覚悟など、俺にはなかった。


◇◇◇◇

「馬鹿課長、死ね-!!」

 居酒屋に、俺の大声が響いた。

「飲み過ぎだぞ、健二」

 井上が呆れたように言う。

「俺が悪いのかよ、え~! あの企画書を作るのに俺がどれだけ苦労したか・・・・・・」

「気持ちは分かるが、我慢しろ。周りのヤツはお前の仕事だって知ってるって」

「でもよ~・・・・・・」

 俺は机に俯せた。

 井上が肩を叩く。

「起きろ、もう帰るぞ」

「何だよ。まだ呑み始めたばかりだろ」

莫迦ばか、もう終電に間に合わないぞ」

「なにぃ~・・・・・・」

 店の時計は23時を過ぎていた。20時から呑み始めたのにもうそんなに呑んだのか?

「お前、時々寝落ちしてるの気付いているか? ナルコレプシーってヤツじゃないだろうな」

「なんだ? それ」

「居眠り病って言われるな。本人は眠った感覚がないにもかかわらず、直前に行った行為の記憶が無い、しくは無意識に寝てしまい、寝ながら行為を続けているっていう珍しい病気だがな。お前、この前怒られているときも眠ってたろ」

「俺が~?」

「かなり珍しい病気だからそんな訳ねぇだろうがな。居眠りの原因は睡眠不足だったていうのが一般的な要因だ。そんな訳だから、早く帰って寝ろ」

 井上にせかされ、俺は席を立った。

 そういや、隣の騒音で睡眠が妨げられて・・・・・・。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 あれ?

 そう言えば、最近俺は隣からの女の声に悩まされたことがあったか?



◇◇◇◇

 出社した俺は、社内が騒然としている事に気づいた。

「どうしたんだ?」

 俺は近くにいた同僚に声をかけた。

「片桐課長、失踪したらしいんだよ」

 失踪・・・・・・?


「小柳君」

 俺はいきなり部長から呼ばれた。すぐに駆け寄る

「はい」

「課長が出していた企画書、君が代わりに進めてくれたまえ」




 企画は順調に進んだ。

 周りは俺の仕事の的確さと早さに驚いていたが、当たり前だ。あれは俺が考えた企画なんだ。俺が内容を一番知っている。

 ここまで進めてしまえば、もう俺の実績だ。

 最近なんだか調子がいい。

 五月蠅い課長もいない。

 夜もそこそこ眠れている。

 毎朝通りかかる度に突然吠えてくる犬も最近見ない。

 通勤ラッシュ時、何時もいた腋臭わきがが酷い男とも会わなくなった。

 何もかもが自分の思い通りになっている気がする。

 ようやく決心が付いた。

 このプロジェクトが成功したあかつきには、ゆきこにプロポーズしよう。


◇◇◇◇

 企画は順調に進んだが、期限が迫るにつれて忙しくなった。

 睡眠時間が削られ、寝落ちしてしまうこともあった。

 しかし俺はプロジェクトリーダー。

 皆が頑張っているのに、居眠りなど許されない。

 俺は寝具にこだわり、仕事中もなるべく身体を動かして熟睡できるよう努力した。

 その日もへとへとになって帰り、ベッドに入るとすぐに睡眠に入った。



 俺は目を覚ました。

 焦点の定まらない目の前の壁が薄く、カーテンの隙間から差し込む月明かりに蒼く染められている。夜となっても消えない、部屋にこもる熱気に、全身が吹き出す汗に濡れている。

 タイマーをセットしておいたクーラーは既に消えており、眠りに入る前の冷気を帯びた空気は跡形もなく消えていた。

 俺が目を覚ました原因は、解っていた。

 耳から入ってくる音に、目を覚ましたのだ。

 ずっと鳴り響く隣からの騒音。

 オーディオから流れ続ける音が、壁越しに響いてくる。

 眠りにつく前は、疲労からあまり気にならずに眠入したのだが、夜中の静けさのためか、その音量が大音響で聞こえてくる。

 意識が覚醒した後、再度眠りに入ろうとしたが、ベースかドラムの重低音の音が鼓膜を刺激し、身体を揺する。

 身体にまとわりつく熱気と耳から入ってくる音の苛立たしさから、俺は瞼を開いたのだった。

 暫く横になっていたが、俺は身体をベッドの上に起こし、溜息をついた。

 振り返り枕元の時計を見る。

 時刻は3時を過ぎたところだった。

(隣は何時寝てるんだ?)

 呆れにも似た感情が沸いてくる。

 そういえば、連日隣からは大音響が響いていた。この音が止んだことがあったか・・・・・・?

 俺は再び横になった。

 腕で両耳を覆い、音を消そうと試みる。

 しかし、重低音の音だけは頭蓋骨に直接響いてくる。

 それは枕を上から耳に押し当てても同じだった。

 止まぬ音に、次第に俺は苛立たしさと怒りを覚えていった。

 怒りは俺の眠気を消し去り、腹立たしさが身体に充満してくる。

(もう我慢できねぇ! 文句言ってやる!)

 俺はベッドからタオルケットを跳ね退け起きあがった。

 そのまま立ち上がり、玄関の方へと歩いていく。

 

 言わなくては分からない。

 隣の住人は多分馬鹿なのだ。

 他人の事を気遣うという神経を持ち合わせていないのだ。

 言わなくては、迷惑がかかっていることなど気づきはしないのだ。

 俺は一言文句を言ってやろうと、サンダルを履き玄関を開けて外に出た。

 廊下の薄暗い蛍光灯が、瞳孔を刺激した。

 廊下に出ると、外気には緩やかな微風が混じり、濡れた肌を撫でて行った。

 数歩歩いて、隣の玄関の前に立つ。

 俺は躊躇ちゅうちょせずインターホンを押した。

 何の反応もない。

 俺は数回ボタンを押した。

 しかしそれでも玄関に誰か現れる気配はなかった。

(俺が睡眠を邪魔されたというのに、この部屋の住人は寝ているというのか?)

 俺はインターホンを連打することを諦め、ドアを叩いた。

 金属性の扉を殴打する音が廊下に響く。

 これだけのことをしても、全く現れる気配がない。

 まさか、音楽をかけっぱなしにして留守にしているのではあるまい。

 俺は怒りを覚えながら玄関のノブを掴んだ。

 意外なことに、ドアは手前に引かれた。

 開かれた扉の隙間から、大音響が漏れてくる。

 不用心だと呆れると共に、本当に留守にしているというのか? という疑問が脳裏に浮かんだ。

 一瞬俺は躊躇したが、居ないのなら勝手にオーディオの電源を切ってやろうか、と考えた。

 しかし他人の部屋、しかも女性の部屋に勝手に入るという罪悪感がもたげ、暫くドアノブを見つめていた。


 オギャァ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 微かに耳に届いた音に、俺は顔を上げた。

 大音響に混じり、赤ん坊が泣くような音が聞こえた。

(赤ちゃん・・・・・・?)

 この部屋に赤ん坊が居るのか? 独りで?

 大音響に包まれる部屋で、赤ん坊がこんな深夜に独り、残されている。

 状況の異様さに違和感を覚え、俺は部屋の中に入る決心をした。

 部屋の扉を開く。

 まず俺が感じた物は身体を揺らす音圧、そして異臭だった。

 その臭いに眉をひそめる。

(何だこの臭いは・・・・・・)

 玄関を見ると、ゴミ袋が山のように積まれていた。

 出し忘れた生ゴミが腐って、異臭を発しているのだ。

(なんて住人だ・・・・・・)

 部屋の奥の方を見る。

 玄関の外から入ってくる蛍光灯の明かりは、玄関の所までしか届いておらず、その向こうは闇だった。

「すみませーん」

 部屋の中から人の気配は感じられなかったが、一応声をかけてみる。 

 やはり応答は返ってこなかった。

 俺は異臭に腕で鼻を押さえながら、サンダルを脱いで玄関の板間に足を乗せた。

 手の支えを失った扉が背後で閉まり、暗闇が俺を包んだ。

 俺は玄関のスイッチを探った。

 他人の部屋とはいえ、アパートの作りは全室同じなはずだ。

 すぐにスイッチを探り当て、押してみる。

 手応えはあったが、明かりが灯ることはなかった。

(電球も取り替えてないのか・・・・・・)

 俺は暗闇に瞳が慣れるのを待ち、それからゴミ袋が占める廊下をゆっくり進み始めた。

 足下を見ながら歩を進め、前方を見上げる。

 リビングへと続く扉は開いたままで、四角い入り口の奥は暗く漆黒の闇に包まれていた。


 その暗い部屋の中で、二つの明かりが発光した。

 俺はそれに注視した。

 光が動き、部屋に先ほどの赤ん坊の声が木霊した。 

 部屋の中で直接聞くことで、その声の主の正体が解った。

 その声は、猫が発する声だった。

 俺は心配したことが馬鹿らしく思えた。

 しかし、結局部屋の中に入ってしまったのだから、この大音響を止めてしまおうと部屋に足を踏み入れた。

 部屋の電気を点けようとスイッチを押すが、部屋の灯りも灯らない。

 その時だった。

「ウワッ!」

 何かに足を取られ、俺は床に転がる。

 部屋の暗さに慣れた俺の網膜が、床に白い物体が横たわっているのに気づいた。

 気のせいか、部屋の異臭が濃い。

 俺はその物体に意識を集中した。

 大音響が木霊するその暗い部屋に浮かび上がった、モノ。

 部屋の中央に横たわるのは、人だった。

 月明かりに照らされたその表情は苦悶に満ち、瞳を開いたまま上方を見上げ、口からは血が流れていた。股間部に、失禁の水溜まりが出来ている。

「ヒッ!」

 俺は後退る。


 その時脳裏に閃光が閃いた。

 俺はその閃光に瞳を閉じ、眉をひそめた。

 閉じたはずの瞳に、映像が浮かぶ。

 それは、目の前に転がる女の、苦痛に歪む表情だった。

 口から泡と膨らんだ舌がこぼれ、顔の皮膚はどす黒く紅潮している。

 それは、この女が殺される瞬間の映像。

 しかも、この女の首を絞める犯人の視線から見た画だ。


 まさか・・・・・・。 

 これは、もしかして・・・・・・・・・・・・、俺の記憶か!?


 映像が突然代わり、棚を閉める映像が浮かぶ。

 その瞬間、女の遺体のことも忘れ、俺の身体は硬直した。

 

 何だ・・・・・・今の映像は・・・・・・。

 あれも、俺の記憶にある「モノ」だというのか?

 俺は部屋を飛び出し、自分の部屋の中に駆け込む。

 そして・・・・・・。

 台所の上に備え付けられている棚に視線を向け、それを凝視する。

 恐る恐る取っ手に手をかけ、手前へと引く。

 僅かな抵抗を見せ、カタッと扉は開いた。

 俺の額に一筋の汗が滴り落ちた。

 扉を開きながら、乾いた喉を嚥下する。

 開かれていった棚の中に現れた物。

 それは銀色の光沢を放つ包丁だった。

 俺はそれを手に取る。

 先端に黒く変色した血糊をつけた包丁が、俺の手の中にあった。

「あ・・・・・・あぁ・・・ああああぁぁぁ・・・・・・・・・・・・。」

 俺の喉から、情けない鳴き声が上がった。

 その包丁に見覚えがあった。


 夜道を歩く課長の後ろ姿。

 そして────。

 背に突き立て、抉った道具。


 俺は、意識が無い間に出歩いていた!?

 だからサンダルの位置が変わっていた!?

 膝が崩れ、床を打つ。


 俺だ・・・・・・。

 俺が殺した。

 課長も隣の女も、俺がったんだ。


 とてつもない罪悪感に襲われ、俺は震え、涙した。

 なんて事をしたんだ、俺は。

 自首?

 逃げる? 

 同時に泣き叫ぶ母親の顔がぎった。

 犯罪者の遺族として、罵倒されながら残された人生を送る両親。

 再び包丁を見つめる。

 それを見ながら、もう一つの選択肢が頭に浮かんだ。

 これで自分を刺せば、課長の血痕が消えるかも・・・・・・。

 背中から床に立てた包丁に倒れ込めば、自殺では無く、俺も襲われたと思われるかもしれない。

 両親を巻き込まない為には、罪を償って、死ぬしか無い・・・・・・。

 そう、死ぬしか・・・・・・。

 


 


 その時、部屋に誰かがいる気配がした。

 暗闇に、人が立っている。

「ゆき・・・・・・こ・・・・・・?」

 何故此処に、こんな時間にゆきこが?

「・・・・・・オーディオを消さないと、と思って……」

(何?・・・・・・。)

 ゆっくりと近寄ってくるゆきこの頬は濡れていた。

「・・・・・・何故、泣いている・・・・・・」

「だって私・・・・・・貴方を殺さなきゃいけないんだもの」

「な・・・・・・?」

 そう言った途端、今まで受け入れてきた数々のことが疑問に変わった。


 何故ゆきこは俺が食べたいものが何時も判った?

 俺が言わないうちに何故望むモノが出てくる?

 どうやれば、俺が望むこと全てを叶えてくれているんだ?

 そして。

 何故、いなくなればいいと思った者達は消えた?


「貴方が望んだから・・・・・・」

 ゆきこの言葉に、背中を冷たいモノがはしる。

 俺は今、考えただけだ。口にはしていない。

「そうよ? 貴方は思っただけ・・・・・・」

 ゆきこの言葉を聞きながら、あるモノが脳裏に浮かぶ。


 ────サトリ──── 


 それはヒトの心を読む「サトリ」と呼ばれる奇怪な存在。

 俺が電話の声が五月蠅いと感じた翌日から、女の声は消えた。

 俺が殺してやると怒りを覚えた次の日から、課長の姿は消えた。


 次の瞬間。

 脳内で同時に大量の映像が駆け巡った。

 犬を殴る鉄パイプ。

 ホームに腋臭男を突き落とす手。

 老人の引きつった顔。

 泣き叫ぶ子供。

 犬と腋臭男は見たことがあるが、誰だ? この人達は・・・・・・。

 さっきから脳内に流れ込んでいる映像は、俺の記憶では無かったのか?


 そしてよく見慣れた顔。

 あれは、夕飯を食べている、俺の横顔だ。

 位置的にこの映像の持ち主は・・・・・・。


 ゆっくりと、ゆきこの方へ視線を向ける。

 

 


『ヨウヤク、ココロガヒトツニ、ナレタ。ノニ・・・・・・・・・・・・・・・・・・』


 ゆきこの手には包丁が握られていた。

 泣きながら近づいてくるゆきこの思考が流れ込んでくる。




 そういえば、俺はそもそも、ゆきこと何処で、どうやって知り合った?








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館野 伊斗 @ito_tateno

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