MITHRAS=Ⅰ=〜勇者の物語〜

アーモンドアイ

第1話 勇者、シナイ山で羊飼いと出会う


 イザリース(メソポタミア言語読みでエデン)は悪魔の手に落ち、イザリースの勇者であるオーディンたちは戦火を潜り抜けて世界各地に散らばっていた。


  【1 羊飼いは夢をみる】


 僕は勇者だ。そんなことを商店街の片隅で呟くのは少しおかしなことだっただろうか。


「それをどうやって証明するんだ? ヘルメスが勇者になったって?」

 キリーズ港を見下ろす、高台にある小さな雑貨店。店主のユッグは、この時代には珍しいボタンと襟のついたシャツを愛用する小洒落た中年男性だった。

「笑わないでくださいよ。ザッハダエルが大変なことになっているって噂があったじゃないですか。そこで活躍しちゃって、気がついたら僕が勇者ってことに」

「なんだそりゃ」

 ユッグは再び旅にでも出ようと画策でもしているのか、自身で使う剣や盾の手入れに余念がない。

 店のカウンターに研石を置いて、剣を滑らせていく。刀身の鉄もまたこの時代には高価なもの。店の小窓から差し込む光で剣の曇りを見誤らないようにと彼は集中していた。

「誰だって勇者になろうと思えばなれるもんさ。夢を見るのは自由さ。さ、ドアを閉めておいてくれ」

 と言ったきり。ユッグはもう客である僕のことも見ていなかった。

 彼は商人である前に旅をする剣士だった。僕のような若者を彼は何十人と見てきたことだろう。だからこそ、勇者と名乗る僕のような若者には辛辣。

 ところで、

 僕は勇者だと吹聴するためにユッグの店を訪れたわけではない。

 僕にはそもそも別の用事があった。

「それは売り物なんですか?」

 僕が聞けば、

「これは俺の愛用の剣だ。こういうものを使うのは、別に旅をする時だけじゃない。物騒な世の中だからな」

 と返事がきた。

「ふうん」

 と頷けば、

「ヘルメス?」

 僕は逆に呼びかけられる。

 ユッグは商売人だから、この時になってやっと、僕が何かを探していることを察知しただろう。「まだ何か用事があるのか? あんた新米の冒険者だろう。最初にここに来た数ヶ月前、確かあんたは商人だって話をしていたからな。装備品でもお探しかな」ときたもんだ。

「装備品じゃないんですよ」

「冷やかしか? あんたらが利用した傭兵団への謝礼は俺が受け取った。用事はそれだけだろう? 傭兵団のご利用ありがとうございましただ」

「確かに狼の傭兵団への謝礼はお渡ししましたけど」

「何か別の依頼か? 謝礼は確実に狼の傭兵団へ届けてやる。直接挨拶がしたいというのはなしだ。まあ、あいつらも変わりものだからな。ザッハダエルの魔王討伐に参加するなんてリクエストは普通は誰も受け付けない。あいつらくらいなものだ。あれは戦争にも首を突っ込む物好きって奴だ。変人とも言う」

「それとは全然関係ない話なんです。僕が欲しいのは薬です。薬草とかポーション?」

「ポーション?」

「リッリさんが忙しくて、それで今日は僕ひとりで来たんです」

「ああ、あのエルフの学者か。それは残念だが、別に報酬のやりとりだけだからな。あんただけで十分だろ。学者が時間に追われるのは理解してやれる」

「リッリさんは、実はザッハダエルの病人たちを看てまして手が離せないんです。ザッハダエルで魔王をやっつけたんですけど、その後は病気の人たちばかりが残されていて。見てみないふりなんてできないじゃないですか」

「なんだ、結局ザッハダエルの連中も助けてやっているのか。そう言えば、死体が串刺しになっていたりと酷い状況だったって言ってたな」

「問題になっているのは疫病とか流行病とかです。だから、リッリさんの助けになる便利で使えそうなアイテムがないかなって思ったんです」

「それでポーションか?」

「単純に怪我をした時とは対処が違うみたいで、治すのにかなり時間かかるみたいなんです。お湯を沸かして消毒して、タオルも頻繁に替えて看病してって感じで」

「流行病は困るな。俺もいろんな場所を旅してきたが、村によっては流行病にかかると、隔離して病人を殺すなんてところもあった。結局、病気を移されると、村の人間がみんな死んでしまう」

「そうそう、それで手伝いを集めるのも難しくて。流行病、治せるポーションとか欲しいです」

 僕は少し期待した。

「あるわけないだろ、聞いたこともない」

 ユッグからは即答。

「ですよね」

「この店に流行病に対処するようなアイテムはない。仕入れる予定もない。たとえばアースガルドのイズーナが配るリンゴを食べれば永遠の命が貰えるとか、そういう話は聞くが、実物を俺は見たことがない。永遠の命が貰えるなら疫病も克服できるってことだろう。そんな商品があれば言い値で売れるんだろうが」

「イズーナって創造主のことですよね……」

 僕はため息をついた。

 永遠の命なんて妄想しても、手が届くはずもない。

「イズーナのいるイザリースでなくても、ヒルデダイトの首都とか、ミツライムの首都ラムセスに行けば特効薬が見つけられるかもしれない。こっちのほうが希望があるだろうな」

 ユッグはそう教えてくれていた。

「ミツライム?」

 僕はその国に聞き覚えがある。

「ん?」

「いやぁ。ひょっとしてミツライムって、あのピラミッドがたくさんあって、ファラオがいて、スフィンクスの並木道が観光地になってる、あの軍事大国のことかなって?」

「他にどこがある」

「どこっていうか、ここからは遠くないです?」

「変な薬を探すなら、大都市に行くしかないって例えだ」

「ああ、そうですね。それでミツライムの首都ですか?」

「王侯貴族ってのはなんでも集めたがる。だから大都市にはたいていのものが集まるものさ。まあ、そんな薬があったとしても、王侯貴族が興味を示すのは剣とか鎧のほうだろうがな」

「ポーションとかって興味なさそう?」

「そういう薬があれば、ヒルデダイトやミツライムで流行病が蔓延するなんて、あるわけがない。たびたび流行病の話を聞くってことは、そもそもそんな解決方法がないってことだ。ヘルメスも旅先での病気には気を付けろよ? 病気はモンスターより厄介だからな」

「たはは、本当、そうですよね」

「いや、ちょっと待てよ……」

「うん?」

「話していて何だが、そのミツライムに流行病専門の医者がいたような気がする。あれは何十年も前の話だったか。昔はそういう奴がいたから良かったなんて言う噂だ」

「専門医? 今はいないってこと?」

「昔はって話だ。だから、今時はミツライム方面によく出かける同業者も病気になったら一大事だと話していた。いや、最近、それで運良く凄腕の医者に巡り会えて助かったという話もあったな——」

「凄腕の医者?」

「シナイ山だ。なんでそんなところに専門知識を持っている医者がいるんだっていう話をした記憶がある」

「シナイ山って言うと?」

 僕は何気なく、その場所を聞いておく。学者であるリッリにあとでこのことを話せば少しは助けになるかもしれないと考えたからだ。

「簡単に言うとカナンからミツライムに行く途中にある山だ。ザッハダエルを越えてさらに南だな」

「そんなところに医者がいるんです?」

 僕にはなかなかイメージできなかった。田舎のさらに田舎に腕のいい医者がいると言う。

「俺も確かめたわけじゃない。どんなものかはわからないが、興味があるなら行ってみたらどうだ?」

 ユッグはそれを言うと、剣を磨く手を止めていた。この時の彼は、僕たちが本当にシナイ山に行くとは思ってもいなかっただろう。続けてタバコに持ち替える手には、遊びがあった。



 ◇



 その二〇日後、

 僕たちはシナイ山の麓で、海を眺めて惚けることになった。これは僕にとってはこんなはずじゃなかったと頭を抱えたくなるところで——。


「ヘルメスの言っていたシナイ山ってここだろ?」

 僕の背後に立って岩山を眺める青年。彼は僕の護衛をしてくれる友人。彼が白い巫女衣装を着ると雪のような素肌と黒い髪で、地元ではお目にかかれない風変わりな剣士と言ったところ。僕は彼のことを「ナギ」と呼ぶ。

 さらに僕にはもうひとり頼れる護衛がいる。

「あたしたち何しに来たんだっけ? ヘルメスに誘われてここまで来たけど」

 こう続けるのは赤髪の女子。もともとヒルデダイト帝国では竜翼章の勲章を持つ戦士だったけれど、クビになったところを僕が世話することになって、その流れで今は僕の護衛をしてくれていた。名前をシェズという。

 ナギとシェズ。まあ護衛というより、二人で僕をからかって遊んでいるというのが、いつもの光景。

 だけど、今の僕は主張したい。

「医者がいるって聞いたんだよ。まるで僕が悪いみたいに言わないでよ。ユッグさんから聞いたんだ。この近辺に流行病に詳しい医者がいるってね。でも証拠は最初からなかったよ。だから、みんなに確認したよね? 本当に現地に行くのって」

 僕に責任があるなら、それはみんなにもある。

 とくに乗り気だったのは赤いローブのエルフだ。リッリは金髪を束ねた可愛らしい少女のようにも見えるが、僕より何倍も長生きしているに違いない学者だった。彼女が赤い巫女衣装に包まると、赤ずきんを被ったようにも見えてしまうところが可愛さのポイント。

 この学者リッリはこれが丁度良い旅行だと背伸びしていた。

「まあ、期待半分よ、話には尾ひれがつくりょ。ユッグの言うことを真実だと思うほうがおかしかりや」

 ここで、僕はナギとシェズ、リッリの顔を順番に見た。この四人でこれからのことを決めていかなければならない。

「じゃあ、最初から医者なんていない、ってわかってたの?」

「期待しすぎは身体に毒」

「僕、はりきってさ、この近辺の村を一通り回ったよ。徒労だったってこと? どこに行っても医者なんて知らないって言われるしさ」

「ヘルメスはワレに言うたりや。ミツライムに疫病を専門に診る医者ありと。ここを通り抜けてミツライムに行けば、首都のラムセスに行けり。ラムセスまで行けば医者くらいは確実におりょよ」

「ここが駄目なら、ラムセスまで行くつもりだったってこと?」

「当然」

「ミツライムって、海の向こうだよ?」

 僕はそしてまたため息をついた。

「すぐそこよ。そこの海のその先——」

 リッリは杖を振り回す。


 カナンからミツライムまでは分かりやすい道が通っていた。過去にカデシュの戦いという戦争があって、その時にミツライム軍がヒルデダイトを目指した道のりだ。

 だけど、シナイ山はその道から外れたところにあって、ギリシャの海とはまた違う海を眺めることになる。

「目の前の海を渡ればミツライム。これって迂回しなきゃいけないってことだよね? 凄く遠回り」

 これが僕の言いたいこと。

「船ならあれに」

 リッリが杖で指すのは、水辺で遊ぶ子供たちのことだった。

 その海は直接キリーズやギリシャに通じる海ではない。この時代のギリシャ周辺では海洋探索も始まっていて、高速船や帆船が行き交う文明航路があった。それに比べると今僕たちが見る海は質素だ。船らしき影はない。丸太が海岸沿いに浮かんでいて、そのひとつに子供たちが乗っているのが唯一の乗り物。微笑ましい光景だが、リッリは子供たちと同じようにして丸太に乗れと言う。

「冗談やめてよ。あれを船と呼んでいいの?」

「遠くを見てみよ。村人もみんなあの船で移動してり」

「あれは丸太に乗る達人だよ。そこの子供なんかさ、あぶなっかしいよ?」

 僕は今にも転覆しそうな丸太を指差した。

 丸太が重なるようにして海に浮かぶその狭間に、丸太に似た船があった。子供たちがしがみつくが、押し寄せる丸太が船の進路を塞いでしまってる。

 丸太船がひっくり返るのに時間はかからなかった。

「ほら、素人が乗るとああなるんだよ」

 僕がそう言いかけた時、

「助けてやり」

 と赤頭巾が杖で僕の背中を押した。

「もうっ」

 これはとんだハプニングだった。

 おかげで僕の服はびしょびしょで、雑巾のように絞るといまだに水が滴り落ちる。突然海に飛び込むことになって虚ろな目をした僕とは対照的に、僕が助けた子供は、赤頭巾の妖精や異国の剣士たちに囲まれると目を輝かせた。

 僕が助けたのはそんな男の子だった。

「大丈夫だった?」

 と僕は少し距離を置いたところで男の子に話しかけてみる。

 さっきまで村を回って冷たく遇われたことを思うと、どうしても距離をとってしまう。

「大丈夫」

 男子は足をさすって、痛そうに顔を歪めた。

「歩ける?」

「歩ける」

「痛そうにしてるけど?」

「歩けるって」

 立ち上がろうとして、また座るのは歩けない証拠だ。

「痛いなら、診てあげようか。そこにいるリッリは怪我を治すの得意だから」

「いい、いらない」

「怖がらなくていいよ。痛いときはみんな一緒だし。リッリはね、いつもは遺跡を漁っている学者さんだけど、何百人もの怪我人を診てきた本物のお医者さん」

「医者なら間に合ってるから」

「そんなに強がっても痛いのは治らないよ? ここに医者なんていないよね?」

「モーセのじいちゃんがいる。モーセのじいちゃんは何千人もの病人を治してきたんだ。凄い医者なんだ」

「何千人って、この近くの村にはそんなに人はいないよ」

「ずっと前、旅をしてきた外国の商人が病気になったときも、じいちゃんが治したんだ。その商人も、じいちゃんが凄い医者だって褒めてたんだぞ」

「ふーん。そんな話、初めて聞いたよ」

「だから、お前らの世話になんかならないぞ。帰れ」

「どうしてそうつんけんするのさ。せっかく助けてあげたのに」

 僕は、最後には独り言。喋れば喋るだけ嫌われていく気分だった。

 ただリッリだけはこの時首を傾げたんだと思う。

「医者? その子供は確かに医者といいやりやが」

「あ」

 それは僕たちが探していた言葉だった。

「そのモーセとやらはどこにおりや?」

 とリッリが尋ねれば、

 子供は言う。

「じいちゃんは、羊と一緒にその辺」

 ならばと僕も質問をする。

「近くの村の人? さっき聞いた話だとこの辺りに医者なんかいないって言われたけれど」

「ふんっ」

 それが村での反応。ここでも同じだった。

「だよね?」

「よそ者には教えない」

「なんかそういうと思ってた。でも教えてくれなくても、探しちゃうよ?」

「お前たちに探せるもんか」

「さっき、羊と一緒にいるって言ってたよね? じゃあ羊を見つければいいんだよ」

「羊なんてどこにだっているぞ」

「あの山の上からなら、どこに羊がいるか見えそう?」

 僕はシナイ山を見上げた。山の上に立てば周辺が一望できるだろう。羊の群れも見えるはず。

 すると男の子の態度はまた頑なになっていた。

「あの山には登るな」

「どうしてさ」

「じいちゃんがめちゃくちゃ怒る。俺たちが遊んでいただけでもすっとんできて、殴られるんだ」

「なんで?」

「知るもんか」

 男の子はそこで立ち上がっていた。立てるほどには痛みが引いたらしい。それで、「どうだ」と言わんばかりの顔。

「ふみゅ、怪我は大事なさそうで良かったり」

 とリッリは安堵するが、

 むしろ僕は苛立っていた。

 男の子はお礼も言わずに去るつもりだろう。僕たちが困っているのも見て見ぬふり。

「少しくらい教えてくれてもいいのに」

 僕は、「どうします?」とリッリに何か良い方法がないか尋ねていた。このまま男の子を帰してしまっていいものだろうか。

 リッリの返事はすぐだった。

「場所を変えり」だ。

「もう一度村に行ってみます? モーセさんの名前を言えば、村の人の反応が変わるかも。まあ駄目かもだけど」

「村ではなく、シナイ山に登りやれ——」

「そこを登ったら、怒られるって。登らないほうがいいと思うけど」

「登ったら、モーセとやらがすっとんできやり? 探す手間が省けり」

 リッリは杖を持ち上げて、ついてこいと催促していた。

 ◇




 老人の名をモーセという。白くて長い髭をたくわえた賢人だ。この時は、山頂で遊ぶ子供たちをこっぴどく叱ってやろうと息巻いていたことだろう。

 モーセはそうして赤く照り返す岩山の道を進んで来た。

 荒野に賢人があるというのは、まあおかしな話だ。ただの羊飼いがどうやって知識を得ると言うのだろうか。

「あなたがモーセさんですか?」

 僕たちはシナイ山の頂上付近で焚火をしながら、彼を待っていた。だから自己紹介をしたい。

「僕はヘルメス。ちょっと勇者をやってます」

「うん?」

「え? ゆ、勇者っぽく見えないですか?」

 僕は何か言い間違えただろうか。

 モーセは突然の来訪者に戸惑ったに違いない。

「この煙、子供の悪戯かと思ったが、今度のはまた手の込んだ悪戯で……」

 変に誤解される前に改めて、僕は旅の目的を率直に語ることにした。

 ストレートに言えば、

「僕たちはあなたが流行病に関して詳しい知識を持っていると聞いてやってきたんです」

 ということだ。

 これを聞いて、モーセは肩を落としただろうか。

「またどこでそんな話になったのか。流行病の知識? そんな知恵を探してどうするのです。しかも勇者様が」

「病気の人がいて困っているんです。だからここまで旅をしてきました。勇者と言っても魔物を倒しに来たとかそういうのじゃないんです」

「人助けでもなさるおつもりか?」

「はい」

「時々あなたのような方が来る。どこで聞いたのか、疫病に詳しいだろうと、その知識を教えてくれと言ってくる。人助けは立派です。ただあなたの求めている人、それは私の父親のことでしょう。父親はその昔、医者をやっておりましたから。しかし、その父親も二〇年前には亡くなりました」

「父親?」

「わたしのは、父親から少し話を聞いた程度の真似ごとです」

「それでも僕たちよりは知識をお持ちですよね?」

 僕にとってはそれでも溺れながらに藁をも掴む思いがあった。

 やっと医者に会えたのだと思う。

 モーセにしてみれば、やんわりと断りたかったところらしい。

「さあ知識と呼べるかどうか。私の父親は若い頃にどこか遠い国で病人たちの世話をしていたそうです。それも四〇年前の話です」

 彼が持っている知識は四〇年前の父親の知識だと言う。でも、僕はそんなこと気にしない。

「僕たちはザッハダエルの城塞のほうから来たのですが、多くの人が疫病で苦しんでいます。少し話を聞いてください」

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