ナナの診察
「先生、今日はこの子が最後の患者ですね。」
午後10時を回った頃、動物病院の受付で働く美咲は、診察室の奥にいる獣医の藤井先生に声をかけた。
藤井動物病院は、地域でも評判の良いクリニックで、夜間診察にも対応していた。
この時間になると、患者は少なくなるが、時々急患が運び込まれることがある。
「はい、じゃあナナちゃんを診察室に連れてきてください。」
美咲は待合室に目を向けた。そこには、ナナという名の柴犬を連れた老婦人が座っていた。
「ナナちゃんの番です。どうぞ。」
老婦人はゆっくりと立ち上がり、リードを引いた。しかし、ナナは動こうとしない。
「すみませんね、この子、病院が苦手で……。」
美咲が手伝ってナナを抱きかかえ、診察室へと運び込んだ。
藤井先生は、ナナの様子を確認した。
「ナナちゃん、どうしました?」
老婦人は、静かな声で答えた。
「最近、ずっと夜になると吠えるんです。それも、誰もいないはずの部屋に向かって……。」
「なるほど……。」
藤井先生はナナの目を覗き込み、体を触診した。
すると——
「……?」
ナナの体が異常に冷たい。
まるで、生きていないような温度だった。
「ナナちゃん、今、ご飯は食べてますか?」
「……いいえ。」
老婦人は、ぽつりと言った。
「……この子、もう食べないんです。」
「それは……いつからですか?」
「——死んでから。」
診察室が、一瞬、静まり返った。
「……え?」
美咲が思わず声を上げた。
老婦人は、ゆっくりと微笑んだ。
「この子、1週間前に死にました。でもね、毎晩、玄関に立っているんです。リードを引いて、散歩に行きたがるように。」
美咲は、ナナを見た。
——黒く濁った瞳、ぴくりとも動かない尻尾、そして異様に冷たい体温。
「どういうこと……?」
藤井先生が、恐る恐るナナの口を開けた。
すると——
「ッ……!」
口の中から、白いウジ虫 が、ぼとぼとと落ちた。
ナナの口から、腐臭が立ち上る。
「嘘だろ……。」
藤井先生は思わず後ずさった。
しかし、ナナは、ゆっくりと首を持ち上げた。
そして、美咲をじっと見つめる。
「——ワン。」
腐った声で、鳴いた。
老婦人は、静かに話し始めた。
「ナナは、交通事故で死にました。でも、あの子は私のそばを離れなかった。家に戻ってきたんです。」
「そんな……。」
「私は嬉しくて、また一緒に暮らせると思いました。でも……。」
老婦人の声が震えた。
「ナナは、毎晩吠えるんです。誰もいないはずの、暗い部屋に向かって……。」
「それで、私、思い出したんです。」
「昔……ここで、ナナを診てもらったことがあるって。」
美咲は、ゾッとした。
「でも……先生、この子のカルテ、ありますか?」
藤井先生は、震える手でパソコンを操作した。
そして、ナナの名前を検索した。
「該当なし」
ナナの診察記録は、存在しなかった。
「……そんなはずは……。」
老婦人は、クスッと笑った。
「そうですよね。だって……ここにいるナナは、生きていませんから。」
その瞬間——
ナナが、大きく口を開けた。
中から、人の手 が飛び出してきた。
「うわああああ!」
美咲は悲鳴を上げた。
その手は、まるでナナの体の中から、何かが這い出ようとしているようだった。
ナナの口の中から、誰かの呻き声 が聞こえた。
「タスケテ……ココハ……ドコ……」
その声は、老婦人のものではなかった。
それは、まるで、ナナの中に閉じ込められた何かの叫びだった。
美咲が恐る恐る目を開けると、そこにはもう誰もいなかった。
診察室には、ナナも、老婦人も、いなかった。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
ただ、床には、ナナの首輪だけが落ちていた。
藤井先生は、それを拾い上げた。
首輪のタグには、こう書かれていた。
「ナナ 享年10歳」
美咲と藤井先生は、ただ黙ってそれを見つめていた。
そして、ふと気づいた。
診察室の奥にある、大きなケージの中。
——そこに、ナナが座っていた。
真っ黒な目で、じっとこちらを見つめていた。
「ワン。」
腐った声で、もう一度、鳴いた。
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