トイレの髪の毛
美香は、仕事帰りに疲れを癒すために久しぶりにお風呂に入りたくて、地元の銭湯に立ち寄った。家に帰る途中、体がだるくて仕方がなかったのだ。銭湯は昔からよく通っていた場所で、懐かしい雰囲気が漂っていて、どこか安心感があった。
だが、その日は何かが違っていた。湯船に浸かっている間、いつも感じるリラックス感が全くなかった。何かに目を奪われているような、落ち着かない気分が胸に広がっていった。それでも、美香は気にしないようにして、湯に浸かり続けた。
やがて、少し体を温めた後、美香はトイレに行きたくなった。湯上りでさっぱりとした気分になった彼女は、浴室から出てトイレへと向かった。
銭湯のトイレは、一見して古く、少し狭かった。だが、決して不潔というわけではない。ただ、何となく薄暗くて、冷たい空気が流れていた。その時、美香はふと気づいた。トイレの個室の前に落ちている、何かが目に入った。
「髪の毛?」
美香はその髪の毛を見つめて、しばらく立ち尽くした。どうしてこんな場所に、こんなに長い髪の毛が落ちているのだろうか?銭湯に訪れる人々の髪の毛ではない。なぜなら、その髪の毛は、まるで何かが引き寄せられるように、個室のドアの前に散らばっていたからだ。
不安を感じた美香は、無意識にその髪の毛を避けるように足を踏み入れ、トイレに入った。用を足した後、手を洗おうと洗面台に向かうと、その時また違和感を覚えた。洗面台の鏡に映る自分の姿の背後に、何かが見えた気がしたのだ。
「気のせいかな…」
美香は自分に言い聞かせて目をそらしたが、次の瞬間、鏡の中で何かが動いたのを見た。微かに、薄暗い空間に何かが立っているように見えた。その影は、非常に細長く、髪の毛のように長いものが揺れているように見えた。
驚いて振り返ると、そこには誰もいない。鏡を再び見つめてみると、何も異常はなかった。しかし、美香の背中に冷たいものが走り、体が震え始めた。
「おかしい…何かがおかしい…」
その時、個室の前に落ちていた髪の毛が、突然動いた気がした。目の前の床で、髪の毛が小さく揺れ、ゆっくりと彼女の足元に寄ってきているように見えた。恐怖を感じた美香は、速足でトイレの個室を出て、その場を離れようとしたが、ドアの前に立ち止まってしまった。
その髪の毛が、今度はトイレのドアの前でまとまり、まるで何かに引き寄せられるように動いている。それがまるで生きているかのように、動き出す。
美香は心臓が激しく鳴るのを感じ、背後から何かが迫ってくるような恐怖に包まれた。振り返ることもできず、そのままトイレを飛び出して、銭湯を後にした。走る足音が、自分の耳元で響いているように感じた。
外に出てようやく安心し、深呼吸をして体を落ち着けようとした。しかし、どうしても忘れられないのは、トイレにあった髪の毛のことだ。その髪の毛が、まるで美香を待っていたかのように、じっと彼女を見つめているように思えた。
その夜、美香は家に帰っても落ち着かなかった。トイレのことが頭から離れず、何度もその場所を思い返しては恐怖に駆られていた。眠れぬ夜を過ごし、翌日、再び銭湯へ行くことになったが、今度は確かめるためではなく、ただ恐怖を払拭するために足を運んだ。
だが、銭湯に着いた瞬間、再びあのトイレに目がいった。美香は思わずその前で立ち止まった。何かがまた彼女を呼んでいるような気がした。
勇気を振り絞り、再びトイレのドアを開けた。しかし、そこに入った瞬間、美香は完全に凍りついた。そこには、昨日見た髪の毛が、今度はドアの隙間から這い出しているのを目撃した。
そして、その髪の毛がゆっくりと、トイレの中にいる美香を取り囲み始めた。
その後、美香は二度とその銭湯に足を運ぶことはなかった。だが、今も時折、夢の中でトイレに落ちた髪の毛が、静かに動き続けているのを見て、目を覚ますことがある。
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